Eye of the Stormと星野源と
さてさて、毎日
これ
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と
これ
POP VIRUS (CD+Blu-ray+特製ブックレット)(初回限定盤A)(特典なし)
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を聞いている。理由は特にない。
あえて言うなら、今の自分にとっては心地いいアルバムだから。
とアマゾンのレビューなどを読んでみた。
そして、これも見てみた。
ワンオク新アルバム"Eye of The Storm"を徹底分析!
このアルバムはアメリカの音楽のやり方を全面的に取り入れたらしい。
デモも含めれば60曲くらいの中から、いろんなプロデューサーと力を合わせ、選んだ13曲。
アメリカ育ちの井上ジョーさんによれば、(気遣いの部分はあるかもしれないけど)英語としては間違っていない。ただし、アメリカ英語とイギリス英語が混じり合い、また歌としてあえて発音を極端にした方がより意味が伝わるというアドバイス。
マルチリンガルならではの苦悩を踏まえた上での動画だったと思う。それにしてもマルチリンガルシンガーってカッコいいですね。しかも思いやりを感じる人柄の良さがにじみ出た素敵な動画でした。
他の動画もなかなか面白いので登録しちゃいましたよ。
少なくとも音楽的にも、英語力にも、僕よりは圧倒的に長けている人の話に、きっとそうなんだろうと思いました。(ちなみに井上ジョーさんは漢字はかなり苦手です)
TaKaのインタビューを読むと、今までのファンが批判する気持ちも分かっている。でも、ロックは今のアメリカでは勝負できないのだと、向こうのやり方で自分がどこまでできるのかを試したい、夢を目指す気持ちは変わっていないのだと。今はまだまだいろんな事を勉強中なのだと。
その意味で、実にいろんな歌い方や声の表情が聞けるアルバムである。
僕は以前書いたように、
全くそういう情報も無かったので、日本のファンを大切にしたいという気持ちは分かるものの、時々混じるゆりやんレトリィバァ的な日本語詞は(たとえ伝えたいものがあったとしても)いらないのではないかと思い、洋楽盤も買ってみた。
洋楽盤のみunforgetableという曲が入っている。もちろん全英語詞。
実にいい。違和感が無い。
違和感と言えば、アメリカ人が日本語盤を聞いたとして、英語に混ざる日本語をこれが日本語だと思われると、それはちょっと違うよなと日本人が感じるものに似ているのではないだろうか。
英語の発音に違和感があるかどうかは僕には分からないけど、日本語の部分は洋楽っぽく歌っていると思える。外国の人が日本の歌を歌っているような感じだ。
まるで、外国の方が「てんぷら」を「てんぷーら」と発音するような、東京が東京でないような、あの感じ。
別に日本語としては間違ってはいない。
サザンの歌で日本語を覚えるのは相当難しいだろうなという感じの日本語とか。桑田節ってあるし。
決して日本語として間違っているわけではないけど、歌に乗せる言葉のリズム。例えば、宇多田ヒカルの独特の乗せ方とか。まぁ、一種の言葉遊びや響き、洋楽にあるような韻の踏み方もそういうものの一種だろう。
あえて、それをするなら分かるけれど、日本で出すならサビの部分だけ英語にして、メロディの美しさをアピールする形もあったように思う。
まぁ、そう簡単なものでもないだろうけど。
そこで、先日聞いた星野源のオールナイトニッポンの話を思い出す。それはアルバム「POP VIRUS」の表記について。
これをカタカナにすると、「ポップウイルス」と読む。もちろん英語の発音とは相当かけ離れている。しかし、星野源さんはあえてこれをタイトルに選んだ。
なぜか。
日本ではウイルスという読み方が浸透している。例えば病院に行ってお医者さんがヴァイルスがーと言うとなんだかカッコつけてるみたいに聞こえるでしょ?と。
でも、彼はそれこそが洋楽に影響を受けて日本という場所でポップスを作った今回のアルバムにぴったりだと考え、あえてそれをタイトルにしたと。
一方で、「Eye of the Storm」というアルバムに何らかの批判をする人は、これからも日本のロックをガンガンにやっていく(と期待した)バンドが過去を否定して、アチャラに行ってしまったような悲しみや不満をぶつけたいのではないかと思う。
星野源さんのようにその人が影響を受けた何かを本人のフィルターを通したモノとして聞きたかったのかもしれない。
たまたまワンオクに対して、僕にはそれが無かっただけの話だ。
ところで音楽というものに対して、星野源さんは自分の曲にはまるで過去の音楽の何々だとか、そういう理論めいた意見より、その曲から感じたそのままの感想が聞きたい、余計な解説はできるだけしたくないと常々語っている。
僕のワンオクとの出会いは、前情報が無かったおかげで奇しくもそれに近いものになった。ただそれだけの事だろう。
ファンを否定するとか音楽は〜なんて言いたいわけではないけど、僕はどんな作品もできるだけ先入観なく接したいなと思う。
でも、例えば僕は星野源さんが作るこれからの楽曲にはそうもいかない。
極端に言えば、僕の趣味ではない楽曲を彼が作っても僕はそれを受け入れようとするに違いない。なぜなら、僕は彼が作るモノに興味があるからだ。
ある時は、何かの役。何かの文章。何かの言葉。何かのサウンド。
それは作品をそのまま味わうには、時に邪魔なものかもしれない。
の中で彼はこう語っている。
「見る人、聴く人がそれぞれ自分のものにしてくれたほうがいいですよね。作ってる人が自分だけのものにしないのって大事なんだなって。だから自分の作品も、リリースした瞬間に自然と聴かなくなります。誤解されるのもいいなと思って」
この意見はわりとモノを作る人から聞く話だ。
そう言えば、昔ユーミンは誰が創ったか分からない曲だけどみんなが知っている曲を書きたいと言っていたし、村上春樹さんも文体を感じさせずに誰が読んでも伝わる文章を心がけていると言っていたように思う。そして、作品は自分の手から離れた時からその人の物だと。
「天啓」という言葉があるように、まるで人間でない何かが創造したと思える産物がこの世には存在する。
もちろんそれは人によって違うだろうが、何でこんなモノが存在するんだという驚きに出会った時、最近ではそれを安易に神と呼ぶらしい。
我々が天才と呼ぶ人は孤独である。僕が努力の天才と呼ぶ彼はこう語る。
「音楽でも同世代の仲間が全然いなかったから。どこにもハマらない感じがずっと寂しくて。でも30歳になる頃、がんばってどこかに属すのはやめよう、自分の場所を作ればいいんだと思うようになったら、みんなが妙に受け入れてくれるようになったんだよね」
でも、その後、恋ダンスブームがやってくる。
ファンクラブ冊子である「YELLOW MAGAZINE」によれば、スケジュールの過密さと曲づくりの大変さでかなり精神的にきつかった事がうかがえる。もしもツアー中に体調を崩したら大変な損害が出てしまう恐怖。創作における孤独との戦い。
これは現在海外ツアー中のワンオクにもあてはまる事だろう。
つまり、浅い考えでアルバムを作ったりはしないという事だと思う。彼らはインディーズではない。メジャーのトップにいる第一集団だ。それでどれだけの人が生活をしているのかと考えれば自明だ。
しかし、僕らは単なる音楽の受け手だ。どのようにそれを受け取ろうが自由だ。
ただそれを喜んで受け入れている人にあえてちょっかいを出さない節度だけは持っていたい。自分が感じたことをただ優しい言葉で表現する、それだけでいい。
「音楽の話をしよう」の中でバカリズムさんとの対談が印象深かった。
「劣等感というか、音楽はやっぱ強いなって。お笑いってどうがんばっても音楽に負けちゃうんですよね。音楽には記憶が張り付くから。お笑いの記憶ってネタの記憶でしかないじゃないですか」
「ネタの場合は、主役はネタなんですよ。でも音楽は聴いている人が主役になれるじゃないですか。聴きながら、自分を投影して」
毎日目に入る風景を僕はまた音楽に練りこんでいく。