耳の聞こえないギャル
先週水曜日2/6放送の「家、ついて行ってイイですか?〜衝撃の秘密!告白SP」はなかなかの衝撃だった。
いわゆるギャル二人に番組スタッフが声をかける。
かわいいけど、いかにもギャルな二人に僕は少し怪訝な表情を浮かべた。ちょっとついていけそうにない。
けれども、この番組は(やらせ疑惑が浮かぶものの)何らかの事情を抱えた人達が出てくる。そして、これまでにも度肝を抜かれた事は度々ある。
見ていると、22歳の女の子は耳が聞こえないのだという。
もう一人の女の子と普通に会話している。
恥ずかしながら、僕はドラマや映画でしかその方面のことは知らない。補聴器を使っていた人は職場にもいたが、その人はほとんど違和感が無いくらい普通だった。
中でも一番印象深いドラマと言えば、以前に書いた
このドラマの中では手話はかなりくだけた表現で、ストーリーも好きだが手話というものがコミュニケーションの手段の一つであり、あたかも外国語のような感覚で受け入れることができた。
さて、件のギャルは高音ならば聞こえるという。
奇しくもオレンジデイズで柴咲コウ演じる萩尾紗絵も同じ設定だった。そのドラマのイメージが強い僕からすると、もっと発音に違和感を覚える感じなのだが、
この女の子は、文字であえて表現するなら日本語を覚えたてのアジア人のような発音をする。だからほとんど違和感が無いのだ。
見た目もアジア系の感じ(そりゃそうだろw)なので、余計に違和感が無い。
そして、何より明るい。
学生時代は想像通りいじめにあってきた。子どもは残酷だ。
何らかの部分で人は人に優越感や劣等感を感じ、理性の歯止めが効かない世代は容赦無くそれをぶつける。
誰しもそういう感情を抱くことは否定できない。生まれつき耳が聞こえない彼女は、人の唇で会話を読み取る。
だから、陰で悪口を言う同級生の唇の動きで何を言っているかが分かってしまう。思春期の女の子にとって、それはどれほど心に傷を与えたか想像に難くない。
そこで彼女は、努めて明るく振るまうことを決めたのだそうだ。
そうすると友達ができ始めた。
横にいる女の子もそうだ。あまりに普通に会話ができてしまうので、つい手で唇をおおってしまったりするらしい。
嵐の松潤が好きなのだという。でも音楽はメロディしか聞き取れない。憧れの男性がどんな声をしているのか彼女は聞けない。そもそも声というものがどういうものか彼女は想像すらできないようだ。
ホラー映画が好きだという。映画の効果音、字幕に頼らずとも直感的に分かる映像。
嵐の楽曲も音で感じる。どこまでも明るくて素敵な女の子であった。
少し話を変える。
先の土曜日に京セラドームで星野源さんの初の5大ドームツアーに参加した僕は、
先週の火曜日深夜、星野源のオールナイトニッポンを楽しみにしていた。
なぜなら、ライブに参加したファンのみんなの感想が聞けるからだ。
番組では、いろんな人の感想メールが読まれた。
こちらまで嬉しくなるような感謝カンゲキ雨嵐のメールを聞くたびに、あの時の会場にいた自分とその人を重ね合わせ、うんうんうなずきながら僕は自然と笑顔になった。
しかし、あるメールが読まれた時、僕は何とも言えない気分になって泣いた。該当の部分は15分過ぎの耳の聞こえない若い夫婦がライブに行ったという感想メール。
2019 02 05 星野源のオールナイトニッポン ゲスト : 大泉洋
動画が見られなくなる可能性もあるので、説明しておくと、友達の紹介でライブに行き、楽しかったという内容。
全く音の無いライブの中で、周りの人を見ながら雰囲気を楽しみ、また機会があったらぜひ来たいと旦那さんが言った。
この放送の内容の文字起こしを友達に頼んでいる、と。
読み上げた後、言葉を失い、涙まじりの声で感謝する源さん。
普段から無音の世界に慣れているとはいえ、ライブ映像と違って、字幕も無い、ただ目で楽しむしかない3時間。
その感覚はどんなものか分からないが、今まで避けてきたものに心を動かされる人がいるなんて驚いた。
言葉にできない気持ちというのはこういうものなのだろう。
24時間テレビについて、感動ポルノではないかという批判がよくある。出演者に高額のギャラが支払われるのもどうかと毎回話題になる。
まるで日本代表のサッカーを見て、その時だけ応援するにわかファンのように、そんな時だけ障害者に同情を寄せるのか、という意見もある。
また障害者にもいろんな人がいるのに、同情を寄せるような人だけを取り上げ寄付を募る、とも。
でも、あえて言おう。
それの何がいけないのだ?
嫌なら見なければいい。それだけの話だ。日頃からボランティアをしている人はそれでいい。でも普段、あまりそういう事に関心のない人が興味を持つきっかけになり、善意の募金が何らかの役に立つのだとしたら、それはそれでいいではないか。
少なくとも僕はそう思う。
集客力のあるアイドルが広告塔となり、あるファンは握手したい一心でお金を持参する。ただそれだけの行為でしかないかもしれない。
けれどもお金はお金だ。
24時間全部は見ないけれども、ひたむきに何かに挑戦する人を見ると僕は感動するし、同時に怠惰な自分の戒めにもなる。
身体的な障害は分かりやすいが、内面に障害を持つ人もいる。障害と断定されずに悩む人もいる。
僕はよく物事を忘れてしまうけど、それは能力を数値化すればきっと平均的な範囲の中で収まるものだろう。でも劣等感はある。
同時に作業をこなす事は無理だと分かっているから人一倍メモを取るし、何度もメモを見てまぁ何とか人並みに仕事をこなす。
結果が良ければそれでいいのだ。
メモを取らずにこなせる人が羨ましくもあるが、そういう人もある一面では僕よりできない事もある。
それを個性と呼ぶには無理があるかもしれないが、キャラとして受け入れられるように努めれば周りと溶け込める。
そう、冒頭のギャルのように。
耳が聞こえない人でも、例えばブログ上なら何の問題も無い。
障害者でも考え方が合わない人はいるし、それは健常者でも同じだ。
興味を引かれる人には、障害も関係はない。
作家の中にも障害者はいるだろうが、作品に共感できれば読者はそれでいいのだ。
それでも、それでもである。
やはり、自分にとって当たり前の事が、ある人にとっては普通ではないという事を気づかされた時、僕は人について学んでいるんだなと思う。
ずっと思い続ける事はなかなか難しいけど、他人の気持ちを理解する事で少し成長したのではないかと後々思う。もちろん、いい事ばかりではないけれど。
みんな生きている。何かを抱えて。