全く読めなかった英語が読めた時〜青天の霹靂
今でもスラスラ読めるとは言いがたいけれど、辞書があればそれなりに英語が読めるというのは、全く読めなかった過去の自分を思い出すと嬉しい経験だ。
全く読めなかった頃の高校生の僕がどんな感じで読んでいたかを語る時に思い出すのは、department store という単語を訳した時だ。
その日はいつもの英語の担任が休みで教頭先生が代理で授業をしていた。だから余計に覚えているのだけど、確か訳さなければいけない当番みたいなのがあって、珍しく予習をしなければならなかった。
「珍しく」というのは、僕の通っていた高校は進学校ではないので、当番でない限り予習さえしないのが当たり前だったという意味である。
なので、僕は久しぶりに(笑)英語の辞書というものを引いた。
今はもし気になる単語があれば、それなりに分厚い英語の辞書が2冊はあるし、和英や英英、コーロケーション、他にも電子辞書、そしてもちろんネットで調べることもできる環境があるので、ずいぶん言葉に対する探究心も変わったものだけど、その頃の辞書はもっと簡易の辞書で、確か中学生の教科書に載っている単語を強調したような簡易の物だったと思う。
その辞書でほとんどの単語を片っ端から調べた。
といっても、国語辞書ならまだしも、英語の辞書なんてほとんど引いたこともないので、ズラズラと羅列された単語にめまいを覚えながら、なんだか分からないけど、とにかく単語の訳に載っている一番目の意味だけをノートにひたすら書き写してみた。
その時は、何で一つの単語の訳にいくつか載っているものがあるかに疑問すら抱かなかった。
つまり、品詞という概念がなかったのだ。
だからdepartment は「部門」で、store は「店」だ。
あとは日本語で考えて訳をこねくり回す。
といっても、ほとんどいじりようがない。
「部門の店」だ。あるいは「店の部門」だ。
何の事か分からないけれど、もちろんそのまま訳した。どっちにしたかは忘れたが。
ここで今、苦笑した人は、教室でも爆笑が起きたと思うだろう。
しかし、なめてはいけない。
うちのクラスでそれを笑う人はもしいたとしても一人か二人である。
当時は40人くらいの教室だから、いかに勉強しないかが分かって頂けると思う。
実際、この時笑ったのは教頭先生だけだった。
「君は真面目な生徒だね。これはデパートのことだよ」と。
そう言われて、ああそうかくらいにしか思わなかった学力である。
今なら、なんと恥ずかしい事だろうと思えるけれど、
その恥ずかしさは日本語でも通じるデパートと英単語の意味が結びついたからであって、これがもっと難しい単語、例えばthenarditeが「芒硝石」と辞書で調べて知った時の感覚と一緒にしてはいけない。そもそも日本語でもどういう石の事か分からない。
つまり、雑学レベルの知識不足と先ほどの話は根本的に違う。
英語が読める。分からない単語は正しい品詞で調べることができる。そして、辞書で単語を調べる際に視野が広い人だから笑えることであり、あの頃の僕はただ単にさっさと和訳作業を終えたくて、上から目についた訳語を機械的に書きつけていっただけなのだ。
決して、律儀に一語ずつ真摯な態度で逐語訳した結果ではない。
もしも、departmentの訳語がもっとたくさんあったとしても、僕はただその一番目を機械的に選択しただけであり、文脈と照らし合わせて適切な訳語を選んだ結果ではないし、デパートという英語においてもあまりにも常識的な用語の存在さえも知らないくらいの学力不足の結果だという事は教頭先生には分からないだろう。
これは何も紙の辞書に限ったことではない。もしあの頃、電子辞書を引いていても結果は同じだっただろうと思う。
ただし、電子辞書の場合アルファベットを入力していくだけで該当の単語が見出し語として現れるので、例えばスマホに入れているリーダーズ英和辞典で入力してみると、
departmennt
departmental
departmentalization
departmental store
並列した見出しから比較的目につきやすいため、気づいたかもしれない。
しかし、今ここで言いたいのは、この一単語だけを問題にしているわけではない。
こんな単語の訳ですら、このレベルだという事であり、もちろん文章を訳すとなるともっとひどい事になるわけである。
例えば、
I trained my dog.
といういかにも即席感ただよう簡単な文章があるとする。というか今作った。
こんなにシンプルな文章でさえ、当時の僕ならこんな感じで訳を考える。
見たところ、知らない単語は無い。
「私」「列車」「私の犬」これをどうやって日本語らしくつなげるのかを考え悩む。
これで笑える人と笑えない人で、もうすでに英語が多少なりとも読めるかどうかが分かれる。もちろん、説明のために分かりやすくしている例文であることは了承頂きたい。
今笑えた人は、きっとこう思ったはずだ。
「おいおい、なんでtrainedが列車なんだ?」と。edがついてるから動詞だろうと。過去分詞として修飾していないから過去形でしょ、と。
でも、それは別に文法用語が言えなくてもいいけれど、感覚的にせよこれがいわゆる第三文型であると分かっているから笑えると僕は言いたいのだ。
The train had already left before we arrived.
の「train」はなぜ「列車」と訳すのか。
定冠詞がついている名詞で構造上の主語であるから。という優等生な答えはその時の僕には通用しない。
なぜ主語なのか。なぜ名詞が主語になるのか。あるいは名詞はいつも主語ではないのか。というか名詞とは何?
そもそも五文型でさえ、高校生になってもよく分かっていないのだ。
名詞や動詞というのは、数IAにおける係数や次数、単項式と多項式くらいに業界用語(笑)の基本中の基本であっても、知らない人には知らないし分からないのだ。
「幸せ」って英語で何て言うと問われて、happyしか浮かばない人はあまり文法を意識しない人であると予備校の先生が言った事を今でも時々思い出す。
I am happy.
いわゆる第二文型で「私=幸せ(な状態)」の場合のhappyは形容詞である。
しかし、幸せというものが名詞だけの意味で訳すなら、happinessもある。
「幸福」と書いた方がピンとくるだろう。
つまり、これは問い方に少し意地悪さがある。もしくはそのことを意識せずにその場の空気でどちらが適切か判断する問題とも言える。
こんな簡単な単語も外国語に訳す、もしくは逆に日本語にする場合には、気をつかう必要があるという例で話されたわけだ。
教頭先生に笑われた時、僕は恥ずかしくはなかったけれど、なぜ笑われたのかが分からなくて、読めるようになるまでずっと心のどこかにひっかかっていた。
そして、先ほどのtrainを辞書で引いてみて、それが動詞であり、「訓練する」という意味があって、文意に合った訳語を選べるようになった時、恥ずかしさを覚えた。
もちろん、実際はtrainではない他の動詞だったと思う。日本語化しているカタカナ英語が実際の意味と違っている事も多いけれど、トレーニングと言えば、実はtrainにそんな意味がある事も知っているはずだが、英語が苦手な人間はそんな事さえ結びつかないものだ。
bookに帳面の意味があり、そこへ書き込む意味から、記入や予約、登録するという意味があると言われても不思議な気がする人も、芸能人がよく使うダブルブッキングや普段よくするブックマークと同じ語源だと言われれば急に身近に感じられる。
さて、僕がどうやって英語を読めるようになったのか、もう少しだけ書いてみよう。
読めない僕は、受験に迫られてとにかく3000語くらいの単語集を毎日毎日ひたすら覚えた。
とにかく、英語が読めないのは単語を知らないからだという実に短絡的な発想である。
もっともそれはある程度読めるようになったならば、語学学習につきまとう永遠のテーマでもあるのだけれど。
ただ、その時の僕はもっと低いレベルでそう信じていた。
で、何とか単語を覚えた。
でも、読めるようにはならなかった。
英文は依然としてよそよそしく、蟻の行列でしかなかった。
それは黒い文字の固まりであり、まるでマトリックスのオープニングのようにディスプレイに表示されるプログラム言語のような意味をなさない紋様のようなものであった。
単語さえ分かれば、モヤモヤした霧が晴れると思っていた僕は愕然とした。
一体どうすればいいのか分からない。
理由ははっきりしている。文法も知らず、辞書も引けないからだ。
でも、その時の僕にはその事もよくは分かっていない。
だから、選択肢の見分け方だの、パラグラフリーディングだの、とにかくいかにもなテクニックにばかり目を奪われていたけど、それでも全く読めるようにはならなかった。
構文集も言ってみれば、長い単語を覚えるようなもので、日本語に置き換えれば、文法も意識せずことわざを覚えているような感覚で、それが長文になるとよく訳せない。
というより、見た事のある文章が寸分違わず出てくる事はないので、照合作業では一向に訳せないのだ。
藁をもすがる思いでいろんな参考書に手を出して、結果一番自分にぴったりだったのが、当時の受験英語の神様的存在の伊藤和夫先生の本だった。当時受験界では、
という参考書の旧版が定番だったけれども、とにかく難しい参考書という堅苦しさが表紙からも伝わるため、それは諦めた。
ただ、当時は旺文社にラジオ講座というものがあり、学習雑誌と連動した講義の内容がラジオで放送され、今では超有名な現代文の出口先生も華々しくデビューを飾るような時代であり、その中で伊藤先生といえば、超大物俳優たる存在であったので、その一本調子の講義口調で全く分からなかったルールとパターンの英文解釈講座を耳にし、名前だけは知っていたのだ。
その御大が、名著と名高い英文解釈教室をもっと分かりやすい語り口調にかえて例文レベルもグッと下げて出版したのが、
ビジュアル英文解釈 (Part1) (駿台レクチャーシリーズ)
- 作者: 伊藤和夫
- 出版社/メーカー: 駿台文庫
- 発売日: 1987/12/10
- メディア: 単行本
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偶然にもこの本との出会いが僕の英文への向き合い方を180度変える事になったのである。
青天の霹靂とはまさにこの事であり、今でもこの本は僕にとってはとても捨てる事のできない本の一冊(パート2もあるから二冊か)である。
伊藤先生には英文読解のルールというものがあり、その一番目がとにかく僕にとっては衝撃的であったので、抜粋する。
(1) The house stood on a hill.
(2) In the house stood a man.
この二つの例文の違いが分かるかどうか。
それが先ほどのtrainedを自分で分かる単語trainに置き換えて、それに合う訳語だけを探す読めない原因であったわけです。
(1)は「その家は丘の上にたっていた」ですが、
(2)は当時の僕なら、inは「〜の中に」で、あとは「家」、stoodは中学の時に何のためかはよくは分からないけれど(という感覚だった)、呪文のように覚えさせられた不規則変化動詞ではないのでstandに直して、あとは日本語でつなぎあわせて考えるわけです。
で、「一人の男」が「家」「の中に」「たってる」というつなぎ合わせで、何とか訳をこねくり回すわけです。
ところが、これがこの後に例題として出てくる長文、
In the early days of the automobile,many people did not think very highly of it.
〜以下、長文続く
となると、もう頭の中がパニックで、堺マチャアキのように文字の固まりが、
ホニャララ、ホニャララ、ホニャララ?ホニャララ、ホニャララ〜
と意味不明のお経のようにしか思えなくなり、頭が痛くなるわけです。
分かる人にはくどいでしょうが、これは(2)の変形文でしかないのに、その事が分からないのです。
この文章の主語はもちろんmany peopleです。しかし、それはフィーリングで導き出されるものではないし、訳語のつなぎ合わせで何となくそういう意味だろうというような場当たり的なものではありません。
もちろんと言えるには、そこに文法としての意識が必要なわけです。
しかし、それが無い。
そこで、僕はその本のルールを覚える事にしました。
ルール1 前置詞のついた名詞は文の主語になることができない
ただ、これを理解するには文法用語が分からないとどうにもなりません。もっとも文法が分かる人なら当たり前すぎるルールですが、僕には魔法のような目からウロコ感がありました。
僕はその頃、浪人をしていました。
そして、当時まだ全く無名で学校法人にすらなっていない東進ハイスクールのCMがばんばん流れていた影響で、こちらの先生の授業を受けていました。
ちなみにこの参考書がまだ世に出ていないほぼ無名の時の荻野文子先生です。
なぜか僕は当時から古文が好きだったので、たまたま古文にだけ興味があり、また幸いにも難関校クラスのテストに古文だけは合格できたので、受けていたのです。
ここで、僕は品詞分解から文法の大切さを知り、さらにその論理的な文章読解にひかれる事になります。ちなみに先生の凄さは参考書では伝わらないハイレベルです。
おそらく他の先生もそうだろうと思いますが、参考書にするという時点でどこか一般的な説明にならざるを得ず、しかも実験的な内容にもできない部分もあるのではないかと推察します。
林修先生もあれだけ東大生から信頼されていても参考書は出されていません。今でしょ本はありますが。
荻野先生は、いわゆるマドンナ講師というタレント扱いのイケメン俳優的な揶揄のされ方が当時は受講生として不快でした。確かにお綺麗でしたし、まぁ今となっては笑い話ですが。
当時は私大受験においては代ゼミがもの凄い権力を持っていて、予備校全盛期でしたから、実力若手講師を集めていた東進には無名な先生が多かったのです。ちなみに安河内先生もちょうど東進デビューをされた時で、一度だけ講義を受けた事があります。文節をスラッシュで区切り、復習はとにかく訳し終えた文章を音読して暗記するという王道の授業でしたが、熱意はとても感じました。
ちょうどその頃、これまた一冊も参考書を出していなかった
出口先生のラジオ講座(しかもレギュラーではなく、非常勤な扱い)を聞いていました。
程なく、お二人ともとんでもないカリスマ講師になるわけですが、その論理的な講義が僕にとっては合っていて、まさに幸運な出会いとしか言いようがありません。
残念ながらまだ東進に在籍されていなかった出口先生には、直接教わる事は無かったのですが、この時の人気カリスマ講師の卵の方達から僕はプロ意識というものを感じました。まぁ、その反動で大学には熱意を感じられませんでしたが、それはまた別の話です。
ともかく、文法用語への抵抗が無くなり、論理的で分かりやすい説明が日本語も含めて文章読解力を底上げし、伊藤先生の参考書の内容も全部とは言えないまでも分かるようになりました。
ここで僕は、テストというものには採点基準があり、解答がある以上、そこには解法がある事をようやく実感したのです。
そもそもどの教科もほぼ0点に近い僕が、50点くらい取ることは実に簡単な事でした。
だって、その教科のどこを勉強しても知らないわけですから、下がる事はありません。
虫食いで勉強しても、何点かは上がります。
もちろん、50点から70点、そして、そこからの小刻みな上昇というのは階段の幅も変わり、苦しいわけで、結局そこまで受験勉強に燃え尽きたわけでもないのですが、
少なくとも、勉強すれば点がもらえるという、あまりにも当たり前の事を経験する事で、勉強って楽しいと思えるようになったのは大きな財産になりました。
俗に言う受験勉強の弊害とは、ある程度勉強した人にしか分からない事だと思います。むしろ中途半端に勉強した人ほど声高に言っているような気さえします。
僕にとっては、人並みのhappinessを(笑)初めて得たのです。
英単語をただ覚えた作業は空回りであっただけで、その使い方が分かるとやはり英語は単語だという意味も理解できました。
英語のテストで圧倒的な存在感である長文は、それまでは後回しにするしかなくて、雑学的な発音問題や文法問題を単品で解くしかなかった僕が、長文問題の解答に時間を割くために、先に単品を解くという風に変わった時の感動が分かって頂けるでしょうか。
松屋で大好きなカレーを楽しむために、座ると同時に出されるあのみそ汁を気持ちがはやるあまり、一気飲みするような感じです。
何じゃそりゃ。
と・も・か・く、その時の僕はオリコンチャート急上昇のインディーズバンドのような高揚感でいっぱいでした。
後にも先にもこの感覚は味わった事はありません。
今までの不毛な僕が肯定されたような感覚です。
たぶん、一般的な受験生は少しずつ学力が上がっていくため、あまりその上昇幅を感じないのだと思いますが。まぁ、スーパーサイヤ人になった時の感じですね。
といっても、周りはみんなスーパーサイヤ人であり、超一流大学を目指す受験生はゴッドなのでしょうが。
という事で随分長くなってしまいましたが、あくまで一例ではありますが、今英語が読めなくて悩んでいる人にはおすすめの参考書です。
但し、文法用語だけは多少なりとも理解しないと読みこなせません。
ルールというものがもっと欲しいのなら、
前書きを読むだけでも相当面白いですし、ノリが合えば楽しく勉強できます。文章のノリに比べて内容はかなりしっかりしてますし、英語以外にも学べる部分があります。
あと、たまたま文法用語には強いけど、長文が読めないという人におすすめするなら、
ですね。これは僕が受験生の時には無かったので、最近買ったのですが、今の僕から見ても、いわゆる品詞分解としての参考書としてはそこまで丁寧に書きますかというくらい親切です。それをくどいと取る人は合いません。
ちょっと例文の単語が難しいのが残念ですが、もしよく分からないなら機械的にこのやり方をまねていくうちにやがてその意図が分かり、自信をもって英語を読めるようになると思います。
ここにあるのは抽象論です。
演繹法ではなく、帰納法としての参考書。そしてこの基本が数々の英文で実践として読解力の支えとなります。
僕はフィーリングで読めるような膨大な英文に接したり、バイリンガルでもないので、受験英語の弊害に挙げられる、文法を重視した返り読みというものが大切であると思っています。
それを基本にして、無意識に文法が活用できるレベルになるにはまだまだ遠く、ましてやたった数年の受験期間では到底到達し得ないものだと思います。
例えば、こちらの参考書では、
受験英語を超えた文章読解がなされています。このレベルの英文になると、直訳では意味が通らない日本語になるため、文脈から意味を考え(かつての僕とは違うレベルで)日本語で考えて、こなれた文章を作成する能力が問われます。昔の受験生のレベルがいかに高いものであったかがうかがえます。
あの伊藤先生ですら、日本語や漢文の素養が欠けた構文主義であると批判するくらいです。
受験英語と英文学の読解には隔たりがあるかもしれませんが、訳してみたら、つまらない内容の英文よりも、同じ学習するなら、
のように、ちょっと心に残るような例文で勉強する方が僕は得した気分になれます。
もちろん、本格的な勉強は大学に行くなり、個人的にすればいいのですが、せっかく勉強するなら、ただの知識の勉強におまけが欲しいなと思うのです。
入試現代文でも、テストが終わった後になんか今読んだ文章が気になるなと思えば、出典元の本を買ったりもしました。
そして、その本が未だに僕の心の本棚にあるのです。
なんか、いい事を言ったような気がしたのは気のせいですね、きっと。
最後まで読まれた方に何らかのおまけがあったなら幸いです。
そして、こんなブログを書くほどに、英語で書かれた文字の集まりが、文章として理解できるようにまでさせて頂いた伊藤先生のご冥福を心よりお祈りします。
ここまで、長文に目を通してくださってありがとうございました。なるべく短くしようと思ったのに二時間くらい考えながら書いていたら、8000文字超えでしたw