頭がいいとはどういうことだろう?
僕は入試問題で結構苦労した方なので、受験から随分経った今でもその呪縛ともいうべきものから離れられないところがある。
そう書くと、何だか受験勉強が悪しきもののように思えるかもしれないが、感謝の部分が大きい。
というのも全く勉強ができなかったので、(ある程度)できるようになった時に目からうろこが落ちた経験をして、いろんなものが見えるようになったからだ。
これは何も人に見えていないものが見えるようになったというオカルト的なものではなくて、いわゆる頭がいいと言われる人はどういうものが見えているのかを想像できるようなったという方が近いかもしれない。
あくまで「想像」としたのは、依然として頭のいいと思う人との差を感じるからなのだが、そう感じられるようになっただけでも成長したのだと思う。
眼鏡の度が上がったという方が分かってもらえるだろうか。
仮に今、全く無知な医学を勉強することになったとして、どう勉強するかと考えた場合、昔の僕なら専門書を一読して、すぐに諦めていただろう。
でも今の僕なら、まずは基本書を数冊買ってきて、何が基礎力となるかの平均値を測る。専門用語も覚えなければいけないだろうし、人体の仕組みや理論も学ばないといけないだろう。
試験を受けなければ資格は得られないし、そのためには大学受験も必要だから入試から逆算してスケジュールを立て、ある程度勉強が進めば、過去問題で出題傾向も知らないといけないだろうと推察する。
と、誰でも思いつきそうなことを書いているけれど、昔の僕はそうではなかった。
なぜなら、非常に真面目であったからだ。
言い換えれば、効率を考えなかった。バカ正直と言ってもいい。
試験というものはドリルや小テストの延長だと思っていた。しかも時間が無制限に近い、宿題のようなものだと。
極論すると、全ての問題に答えること、満点を取ることが勉強だと思っていたのである。
予備校に通い始めて、いろいろ考え始めた時、どうやら勉強と試験勉強は違うようだと気づいた。
書きながら今ふと思い出すのは、中学校の理科の先生の話だ。
「大学のテストは持ち込みオッケーなんだよ」という言葉に生徒は驚く。
そこで生徒は次々に質問を始める。
参考書は?辞書は?本は?
「何でもオッケーです。ただし、誰かに相談するのは無し」
生徒は一様に信じられないという反応をする。
「だって答えは載ってないから。自分で考えるんだよ」
先生から特にそれ以上の説明はなかった。だから僕はその時、大学生ってずるいなーと思った。
今それについて先生に聞き返すことはないけれど、きっとこういう事かなと思う。
おそらくそれは知識を問う問題ではない。そして、何かの本を引用するだけでは答えられないような問題なのだろうと。
中学生の僕にとって、答えというものは何かの参考書や教科書に載っているものであった。
例えばそれは、ある時は歴史の年号であり、漢字の読み仮名であり、英単語の意味であった。
しかし、本来勉強というものは自分で何かを学び取り、考えることが本質だと僕は思う。
ただ、試験という何らかの能力を測るものには自ずと採点基準を設けなければならない。
そして、そこには点を取るための解法や試験勉強法が生まれる。
先ほどの話は、中学生の僕には「勉強をしなくても受けられる試験=ずるい」であったけれども、その「勉強」とは半ば強引に言えば、「暗記で解答できる」「調べれば解答できる」勉強と同義と考えていたのである。
もちろん、その試験はそんなに簡単なものであるはずはない。実際は、日頃の勉強が試される対策がしづらい試験であった事だろう。
そこで教授が試しているものとは、基礎的な知識もさる事ながら、論理的な文章力や数式ではなかったかと思う。しかもそれは当然のごとく制限時間を伴うため難しい試験だろう。
試験勉強というより、学問の本質を試すような本来の意味での勉強であったのではないだろうか。
話を試験勉強に戻すと、僕は試験は満点を目指すもの、そして全てに答えなくてはいけないものだと思っていた。
もちろん、問題はできるだけ解けた方が点数も高くなり、合格率も上がるだろう。
模試なら正答率によって合格判定の大学も変わってくる。ただレベルの差こそあれ、合格には合格基準点があり、それはつまり満点でなくてもいい。問題を取捨選択する判断力も必要なのだ。
前から順番に解いて行って、時間が足りなくて答えられたはずの問題を失点し後悔した事も何度もあったが、そもそも答えられる問題が少ないので、ただ漫然と解くしかなく、効率良く問題を解く事など夢にも考えなかった。
ましてや、問題の「質」についてはほとんど考えたことが無かった。なぜなら、質について考えられる程にたくさんの入試問題を解いたことがなかったのだ。
だから、どんな問題もドリルの延長で解けるものだと思っていた。
例えば、ただただ足し算や掛け算がずっと長く続くような。難解な漢字をひたすら暗記するような。単純作業を煩雑にして時間さえあれば解答できるような問題だと。
ゆえに、英語はひたすら英単語を繰り返し暗記して、その延長で文章が読めると信じていたのである。確かに延長にあると言えばあるが、それだけでは読めるようにはならない。
また、基礎的な単語の暗記はある程度必要だとしても、それ以上は暗記では補えない。暗記したものは忘れていく。特に興味なく暗記したものは。
改めて言うことではないかもしれないが、同じ語学という観点から日本語で例を出してみよう。
紐帯、喃語、擯斥、虚仮、黙契、涵養、吾人、擱筆、濫觴、開架、彫琢
それぞれ意味が言えるだろうか。
言えるという方はそれでいい。大したものだと思う。その人はこういう言葉にどこかで出会い、自分の頭で考えた経験があって身についているのだろう。
でも、説明できなくても特に困らないのではないだろうか。
今例に出した言葉は、僕が何かの本を読んで知らなかったものをノートに書き留めた言葉だ。ここで知らなかったというのは、一度も見た事がないというものもあれば、人に説明できるほどではなかったものも含む。言うなれば、僕が文章を書く時にすぐには浮かばない言葉である。
こういう言葉はクイズや問題集は別として、ただ羅列されるわけではない。文章の中に組み込まれて目にするものだ。だから、母国語なら何となく意味が分かるし、分からなければ飛ばして、全体の文意をくみ取ろうとするはずである。
もし、それでも気になったらネットや辞書で調べるのではないだろうか。
であるなら、英語を使う人も同じはず。言葉はたくさん知っていた方がいいとは思うが、辞書を始めから終わりまで覚える必要は普通は無いのだ。
こう書くと、何でも反論したい人は、英語と日本語では発想や文章の構造が違うではないかと言うかもしれないが、語学という観点からと断っている。母国語の文章を読む時に辞書を常に脇に置いて読む人はそう多くはないのだから、単語をたくさん知る事だけが文章を読めることにはならないと言いたいだけである。
実際、専門書を理解できないのは単語だけの問題ではないし、その専門書を読むには一定の論理構造を理解する必要がある。
さて、ここまで長々と書いてきたのは実は前振りである。英語の学習法や試験の話をしたいのではない。それを語りだしたら、いろいろと議論が始まってしまう。
今日のタイトルをもう一度繰り返そう。
「頭がいいとはどういうことだろうか?」
そう、僕はそれについて考えて書いている。
もしも、最初にこのタイトルを見てすっかりその事を忘れてここまで読んでいるとすれば、きっとその人は文章を考えて読むのが苦手なのではないだろうか?
逆に何だかダラダラと文章を書いているけど、お前はいつになったら論じるのだとイライラしている人は、僕から見れば頭がいい人だと思える。そういう人に向けてこれから書きたい。
では本題へ。
先日紹介したAIに関する本をものすごーくかいつまんで言うと、AIには読解力が無い。だから人間を超えることはできないという事でした。
ではどうすれば、その読解力を養う事ができるのかは明確にはできません。
ただ、独自に開発したテストで測ることはできます。
そのテストは何を目指すものかと言えば、教科書が読めればいろんなものを学ぶ能力があると言えるという結論でした。
ここで、僕なりに解釈を加えると「読解力」とは「思考力」ではないかと思います。
なぜなら、
この本におけるAI(技術)とはコンピューターのことで、そのコンピューターとは計算機の延長で、極論すればAIは「思考しない」のです。
あくまで数式に置き換えて計算するだけです。詳しくは読んでもらうしかないのですが、そういう結論です。
では「思考する」とはどういうことでしょうか。
それは今まさにこの文章を読んでみなさんが考えている状態です。
ではその思考力は何で養えるのでしょうか。
本の中では明確化はされていません。
そりゃそうですよね。
思考力なんて測りようがないですよね。
ただ、何かに対する思考力なら測れるものがあるのです。
あるからテストでそれを測るわけです。
では、そのテストで測れるものには勉強法が生まれるのではないでしょうか。
なぜなら「テスト」ですから。
これまでのブログで、大勢の人を公平に試すテストには基準が無いと採点できませんと書いてきました。基準には解法が生まれます。
そう、それが僕の考えなのです。入試問題は教科書を基準としています。だから教科書が読めたり、分かる勉強法を学べばいいということになります。
そんな事を思いながら読んだのが、
こちらの本には、入試で問われるのはどのような能力かと言うものが、問題形式別に語られています。
何だ、受験の参考書かと思うのは早合点です。
これで全ての問題形式を網羅したとは書いていないと釘も刺されています。富田先生が言いたいのはどういう能力が問われているかという事です。
いわゆる偏差値の低いとされる大学の問題と高いとされる大学では問題形式は同じでも問われる質は違います。
例えば、英語の長文があって下線部が引かれ、それについての設問があるとして、何も勉強がした事がない頃の僕には、大学のレベルの違いで問われているものに質的な違いがあるとは思いもしませんでした。
すでにある程度、受験勉強をした事がある人には既知でしょうし、ここまででも十分に長い文章ですから、問題を解説し始めるわけにもいかないので、あくまで一例という事で進めますが、
簡単な傍線部の問題は、極端に言えば長文を読まなくても解答できます。
なぜならそれは一問一答に近い知識を問うものだからです。
下線部の意味に近いものを選べという選択肢には、類義語や反意語、無関係な単語が並び、4つある選択肢には明らかに1つだけ正解というものがあります。
でも、レベルが高くなるにつれ、同じ形式の傍線部問題は巧妙に仕組まれていきます。
それを富田先生は雑音とたとえていますが、注意力、抽象的理解力などいろんな思考力を総動員しないと答えることができないようになっています。
時には、選択肢の中に完全な正解がない場合、相対的に見てキズが少ないものを選んだり、選択肢に使われている全ての単語が分からなくても、消去法で正解を選ぶ判断力が試される問題もあります。
難解な単語に注釈を与えず、あえて意味の近い選択肢を選ばせ、正解した者だけがそれを手がかりに全体の文意を解釈できるような巧妙な仕掛け方もします。
僕が経験した問題で言うと、例えば英語における内容一致問題。長文を読ませて内容が合っているかどうかを選択肢から選ばせる問題です。
分かりやすくデフォルメしますが、とある模試で次の文章を読んで内容の一致するものを選べという問いに解答枠は5つあります。選択肢は10個です。
その時点で、答えは5つあるという事は分かるでしょう。それは記述式と違って、選択式ゆえの手がかりとも言えます。これも言わば、受験テクニックの一つです。
そこで真面目な僕は、何問も内容一致を解いていきます。制限時間に焦りながら、ひたすら速く。
「内容が一致するものを選べ」という問いの繰り返しは続きます。
同じ質問を繰り返されて、僕はだんだんうんざりしていきます。ああ、面倒臭い。
そして、僕はその問題を解き終えます。
手応えあり。
そこで、後日採点結果を見てびっくりします。
思ったより点が低いのです。復習のために問題と解答を見比べます。間違っているところは特に重点的に。
おかしい。
内容一致の問題で自信があったのに間違えているものがあります。なぜ?
改めて見直すと、
その問題は、内容が一致「しない」ものを選べ、だったのです。
つまり、僕はそれまでの問題と同様、内容に一致するものばかりを選んでいたので、その問題も「一致する」ものを選んでいたのです。
しかも、この問題の解答が一致するものが3つで一致しないものが7つなら、5つの解答枠に合わないので疑問を持ったはずですが、一致するものと一致しないものが同数ゆえに今までとは逆のものを選ぶ問題であることに気づかなかったのです。
もちろんこれは気づけないように仕組まれているのです。
そして、この問題だけ他より配点を高くしているのが入試問題なのです。
ここで見られている能力とは、英語の力だけではないことは言うまでもありません。もう一度繰り返しますが、これはたとえ話ですからちょっと極端ではあります。
レベルの高い問題には、これに類するいじわるクイズのようなものが手を変え、品を変え出題されます。ある時は問題文そのものに先入観を植え付けさせる表現を用いたりもします。
誰かを落とすのが入試問題である以上、それは致し方ないでしょう。
でも、ここで問われている能力をくだらないと一笑に付すことができるでしょうか。
ある時、ネット販売の商品価格が1桁間違っていて、注文が殺到し問題になったことがありました。
試験で言えば、これはケアレスミスです。公表前にも何人かの人が見ていたはずです。
しかし、誰も気づかなかった。
数字に強い人、データに強い人、誤字・脱字に気づける人、いろんな能力があると思います。
例えばこのブログを読みながら、本題に入る前と後で、語尾の口調が「です・ます」調に変わった事に違和感を感じる人は文章というものに対して普段から繊細な気遣いをする人でしょう。それも能力です。
そういった能力が必要になる場面を経験した事はあるでしょう。
元々そういう能力が突出している人は別として、これらはある程度訓練で養うことができると僕は思います。
一を聞いて十を知るタイプの天才はいます。しかし、同じ文章を5回読んで理解できればスピードはともかく並ぶ事はできます。
ただ、その読み方に問題がある場合は訓練が必要です。
試験は人工的なものです。人工的であるがゆえに必ず解答があり、解法があります。そして、その問題は誰かがどこかで経験した問題から作り出されるものです。
当たり前ですが、未知の問題は存在します。答えの無い問題も数多くあります。
でも、かつて解決不可能と思われた問題が今では解決しているものもあり、その解決法に必要とされた能力を問う問題を作ることは可能です。
もちろん全てが具現化できるわけではないでしょう。具現化できるものを問題として作成し、能力を測定していると言い換えてもいいでしょう。
だから、全ての問題が解決出来るようなスーパースペシャルな能力を試験で測ることはできないにしても、その一端くらいは測ることができます。それすら否定してしまったら、いろんな分野の発展も否定することになるのではないでしょうか。
試験の結果から自分の限界がどこにあるかを知ることで、自分に向いているものは何かが明確にされます。
頭がいいとは何を指すかにも依りますが、勉強というくくりの中で頭の良さを語るならば、思考力が最上位にあるように僕には思えます。
試験勉強には思考力が不可欠であり、レベルの高い大学はそれを求め、試してきます。良問を作る人に思考力がある事は言うまでもないでしょう。そして、そういう人が何らかの発展をリードしていく可能性が高い。
誤解して欲しくないのですが、大卒が偉いと言いたいのではありません。大学を出ていなくても、いわゆる地頭がいい人はたくさんいます。
逆に大学を出ていても(正確には受験勉強を経ていても)、大学のレベルに関係なく、思考力の無い人はいます。
ただ、何かについて思考するという事を軽視して失敗してきた経験は誰しもあるのではないでしょうか。
そんな時、何らかの思考訓練をしたいなら入試問題は有効であると多くの人が証明していませんかという話です。もし有効でないなら、試験に変わる何かができているはずです。
それは読書かもしれないし、頭の体操のようなクイズかもしれませんが、時代に合わせた試験問題の変遷はともかく、何かで訓練するしか効率良くは養えないでしょう。
エリート大学を卒業した人の勉強法が知りたかったり、ある分野で成功した人の本がベストセラーになるのも効率良く学べる何かを追い求めた結果でしょう。
長くなりましたが、話を勉強に関して限定するなら、試験勉強と無縁ではなく、その試験とはAIには無い能力を測るものであり、AIを開発する人もまた試験勉強をしてきた人であるというのが僕の結論です。
だから、試験勉強が無駄とは言えないと思います。少なくとも「全く」ではないでしょう。
富田先生の本はそんな事を漠然と考えていた僕に、試験問題を題材にしながら、面白おかしく読ませてくれるものでした。
ある程度、単語を覚えたらこちらの本もおススメ。語源から単語を類推するだけではなく、思考力を広げるヒントが散りばめられています。
こちらは今日紹介した本の続編です。
キミは何のために勉強するのか ~試験勉強という名の知的冒険2~
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