はずれスライムのつぶやき

どうでもいいことについて適当に考察していきます

もし僕がドラクエの勇者だとしたら

絶対に戦いたくない。

 

なぜ非力な僕が世界平和のために戦えるなどと思えるのだろう。

 

たとえば16歳のある日、母親から突然「うちは代々勇者の家系なのよ、お父さんみたいな英雄になりなさい」と亡き父の遺影の前で言われたら、あなたは「うん、分かった!僕は絶対に世界を救ってみせるよ!」とキラキラした瞳で返答するだろうか。

 

いや、返答できる人もいるだろう。

 

ただ確実に言えるのは、僕はそんなキラキラ坊ちゃんに救われたくはないし、できる事なら関わり合いになりたくない。

 

絶対ヤバい奴だ。

 

人のタンスや引き出しを漁っても窃盗罪にはならず、何とかの剣を所持していて、銃刀法違反にならないなんてあり得ない。悪人だからと斬れば殺人である。

 

自分の身に置き換えてみよう。

 

仮にこの短足オヤジに、ではなかった超絶イケメン少年の僕に勇者というスキルがあるといかに説得されようとも、実感しなければ信じようがないではないか。

 

たとえば、低レベルで覚える回復呪文にホイミがある。

 

それを唱えるとHPが回復するのだ。

 

なんだ、それは。

 

そもそもレベルやHP表示があなたの頭上に浮かんでいるのか?

 

もし表示されているのなら、それは恥部を見られているようなものである。

 

確かに学生時代、人から「レベルが上がったね」と言われた事はある。「体力が無いね」と言われた事もあるはずだ。他にも「頭悪いね」とか「持久力が無いね」とか「背が低いね」とか

 

やめよう。

 

とにかく何らかのそれに近い事は言われたものだ。

 

しかし、人のそういう表示を見た事もなければ、人から「今日はHPが5だね」などと言われた事もない。あるとしてもそれはゲームになぞらえた冗談だろう。

 

でも本当は僕は勇者なのだから、ホイミが使えるのだ。

 

そこである日、レベルアップのファンファーレが僕の頭の中だけに響く。

 

何を経験したらレベルが上がるのかは謎だ。

 

でも、勇者なのだから仕方がない。僕にはそれが分かるのだ。

 

そして、ホイミを唱える。

 

確かにお腹の音が鳴らなくなったような気がする。まるで携帯バランス栄養食を食べたような小腹が満たされた感はある。おやつ代が浮く。その程度のものだ。

 

だが、ホイミベホイミへと変化する。

 

弁当を忘れた時は便利だ。何となく血のめぐりがよくなったような気もする。

 

さらにルーラを覚える。

 

これは便利だ。

 

行った事のある町や村に瞬時に戻れるのだ。ただし、天井が低いと頭をぶつけるというリスクはあるので、学校から出た所で僕はそれを唱えて帰宅する。

 

その時からLINEに次々とトークが表示され、電話が鳴りまくる。

 

「お前さっき空中に浮いて消えたけど、今どこにいるんだ?」

 

それはあっという間にツイッターやネット、果ては動画(撮られていたのか?)で拡散し、メディアに露出し、一躍時の人となり、レジェンド何ちゃらのあだ名までつく。

 

そこで母親が「ほらね、あなたはやっぱり伝説の勇者なのよ」と言うのだ。

 

なんや、それ。

 

そんなもので世界は救えるのか。戦争は終わるのか。ラスボスは紅白に出るのか。

 

確かに今の僕も仕事で疲れると周りに「目が死んでいる」だの「生きた屍」呼ばわりされる事はある。

 

しかし、未だに「死んでしまうとは何事だ」とは言われた事がないし、死んだ事はない。

 

いくら非力でもスライムくらいは倒せるだろうと人は言う(のか)。

 

しかし、鳥山明が描くスライムがかわいい顔をしていても、それが弱いかどうかは未知の段階では分からない。

 

かわいい顔してバクッとマミられるかもしれないし、本当に弱い生物だとしても虐待する精神は持ち合わせていない。それでレベルが上がるからと言って、かわいい子犬を足蹴にするような非情な人間にはなりたくない。

 

メラとはもののけ姫の事ではなく、火の玉が飛び出す呪文だが、マジシャンとして細々とでも食べていけるような人生の方を僕なら選ぶ。

 

ある日、魔法使いだの武闘家だのが仲間としてやってくる。怪しいし、暑苦しい。

 

最悪なのは遊び人だ。

 

人生の落伍者が賢者になると言われても信用できない。

 

山が自分と同じ高さである違和感も慣れないだろう。

 

大学受験を迎えた僕に先生は言う。

 

「君たちはこれから受験という山を登ることになる。ふもとで迷う人もいるかもしれない。頂上が見えなくてくじけそうになる時もあるだろう。でも、きっと頑張った先に何かが見えると信じて登って行って欲しい」

 

いや、登らなくても頂上見えてますけど。ただし、やたらとモンスターには遭遇するが。

 

て、モンスターって何?

 

たとえ毒ヘビよりも強いのだとしても、とにかくそんな訳の分からないモノは専門家に任して逃げたい。

 

結論:だから僕は勇者にはなれない

 

 

 

プレイステーションクラシック〜名作ゲームについて

 

 

が昨日発売された。

 

何となくお祭り気分で売り場に行ってみると、発売日の午前中とあってか店頭販売も行われていた。

 

と書くと、今日のタイトルと相まって購入したと思われるだろうから、最初に断っておくと購入はしなかった。

 

でも、それは自分が懐かしく思う収録ソフトが

 

 

 

 

でダウンロードできるので、収録ソフト以上の拡張性がないハードを改めて購入する必要を感じなかっただけだ。

 

すでにメーカーの生産終了も決まってしまったVItaもVitaTVも所有しているのだから、懐かしのソフトが1000円前後でダウンロードできるのであればあえて買いたいとは思わなかった。

 

ただ収録ソフトの中にはダウンロードできないものもあり、コレクションとして新しい(旧小型)ハードを購入した人を非難するものではない事は予め断っておく。

 

さて、今回語りたいのは、ハードの事ではなくて、ソフトの事だ。

 

プレイステーションクラシックに収録されている作品タイトルを眺めて、久しぶりに当時ではできなかった55型の大型テレビの画面でやってみたくなったので、VitaTVでいくつかダウンロードしてみた。

 

 

XI [sai]

XI [sai]

 

 

 

I.Q インテリジェントキューブ
 

 

いずれも名作パズルゲームだ。

 

初めてこのソフトに触れた時、これはもう絶対売れるなと思った事を思い出す。名作というのは、やっぱりそれくらいのインパクトがあるものだ。

 

もちろん、これらは続編が発売されている。

 

シリーズ化したソフトの第一弾というのは、今プレイすると劣化を感じるのも事実だが、例えばガンダムドラえもんが古びないような大御所感がただよっていて、リアルタイムで体験した世代ゆえの思い出補正というのは否めないにしても、すでにほとんど完成している面白さがある。

 

知らない人のためにそれぞれのソフトの内容を軽く紹介すると、

 

Xaiは操作するキャラを立体的なサイコロの上に乗せて転がしながら、上面のサイコロの目と同じ目のサイコロをその数だけ(例えば乗っているサイコロの上面が5なら5の目のサイコロを5個)隣り合わせにすると消せるゲームであり、IQはプレイヤーに迫り来る立体的なブロックを爆破させながら、前進していくゲームである。

 

と書いても、未プレイの人には何の事やら分からないだろうから興味が湧いたら動画検索をして見てもらう方がいい。いずれも発想が斬新であり、やればやるほど良くできているなぁと感心する。

 

そして、何よりスゴイのは面白い物には多少の劣化要素など大した問題ではないという事だ。

 

画質や操作性は今のゲームと比べるといろいろと不満がある。リメイクでもしない限りそれらは改善されないのだからこれは仕方がない。

 

でも、プレイしていくうちにそんな事はどうでもよくなるくらいに面白いのだ。

 

そこでふと思う。

 

今のゲームにこの面白さがあるのだろうか、と。

 

ちなみに僕はファミコン時代からずっとほとんどのハードを買っているので、3ds,ニンテンドースイッチPS4Xboxなど人よりは多くのハード(とソフト)を持っている方だと思う。

 

だから、まるで昔の名作映画と今の映画を比べて論じるような事はしたくはない。

 

そもそも全く違うゲーム作品を比べる事自体おかしいとは思う。

 

しかし、あの頃のゲームと今のゲームの現状については、どうしても比べてしまう。

 

よく言われている事だが、スマホゲームが主流になり、いわゆる家庭用ゲーム機は実に難しい立場にたたされている。

 

確かに多大な開発費や人件費がかかるゲームソフトよりも、何も考えずにボタン連打すればご褒美がもらえるプチゲームの方が課金してもらえる率は高く、儲かるだろう。しかも複雑なプログラムでない故に不具合が出ればすぐに修正ができ、ユーザの声を反映しやすいシステムには安心感もある。

 

同じ労力をかけるにしても高性能のスマホなら、ひと昔前に流行ったような名作を模倣するくらい簡単な事だろう。

 

僕は基本的にはスマホゲームをしない。でも、それは物理コントローラーと比較的課金要素の少ないパッケージ作品を買い続けてきた習い性みたいなもので、一般的に言えばゲーマーと呼ばれる少ない方に分類される方だと思う。

 

そんな僕でも毎週ゲーム誌を読みながら、ネットで情報を集め、月に1、2本ゲームを買う程度のものだ。メーカーにとっては、課金ユーザーの方がおいしい客である事は言うまでもない。

 

新作ソフトを買っても、お気に入りソフトベスト10を揺るがすほどの作品に出会う事はほとんどない。

 

たまに面白いソフトに出会っても、それは極論すればかつて何かのソフトで味わった楽しさであったり、懐古趣味による補正である事が多い。

 

どんな分野でも、斬新なアイデアというのはそうそう出てくるものでない事は分かっているし、それだけが面白さでない事も分かっているつもりだ。

 

こういう気持ちは、つい先日放送されたM1グランプリで、斬新な笑いやネタを評価するのか、オーソドックスな漫才に点を入れるのか、と毎度のように審査員の方々が悩んでいるのに似ていると思う。

 

昔ながらの手堅いシステムをさらに進化させただけのゲームと作りは荒いがこれからのゲームの方向性を変えうる可能性を感じる斬新なゲームと。

 

笑いもゲームもそれだけで論じられるわけもないが、大きく二分されるのではないだろうか。

 

ユーザーの一人としては、どちらも好きなのだが、昔のゲームには作り手のチャレンジ精神をひしひしと感じる勢いがあった。

 

今回の収録ソフトでもう一つ挙げるなら、

 

 

メタルギア ソリッド

メタルギア ソリッド

 

 

 初めてこのソフトをした時は、同じく収録ソフトである

 

バイオ・ハザード ディレクターズカット

バイオ・ハザード ディレクターズカット

 

 

に代表されるようなサバイバルアクションが主流であったため、とにかく向かってくる敵は倒すものだと思っていた僕は、メタルギアを始めるとすぐに敵に見つかってしまい、即ゲームオーバーを繰り返し、心が折れた。

 

なんだこのゲーム全然爽快感が無いし、面白くないじゃん。

 

しかし、オープニングのムービーもどきの立体的な人形の動き、声優やカメラワークの素晴らしさには何とも言えない魅力が溢れ、そもそもこのゲームはスパイとなって敵地に潜入するゲームだと理解し、アクションゲームの苦手な僕を数々の面白要素でエンディングまで導いてくれた。

 

そして、このゲームは僕に再びプレイを開始させ、そのプレイ画面を(繰り返し鑑賞できるように)録画させ、シリーズ作品を買わせ、サントラも買わせ、さらには鮮烈な小島秀夫イズムを感じさせた名作中の名作になったのだ。

 

今見ると確かに画像は粗い。そのせいでスマホの美麗な画質に慣れ親しんだ今の若い世代にはこの面白さが伝わらない可能性は多分にある。

 

それはまるで名作と言われる文学作品が旧仮名遣いゆえに読む気にならないとか、絵柄がダメすぎて受け付けられない漫画のようなものだ。

 

でも、あなたは、「花より男子」を「進撃の巨人」を否定するのか?

 

あなたにとっての(あるいは多くの人がかつて絶賛した)名作を否定する事ができるのか?

 

いや、別に否定してもいいんですよ。

 

ただ、そこにしかないものを見たくないですかという話。

 

そして、僕はそういうものを見たい人種なんでやんすよ、旦那。

 

だからね、だからよ、そういうものを見せてよと言いたい。

 

そして、言った。

 

書いた。

 

読書の話で何度も書いたように、琴線に触れたものに出会った経験があればあるほど、またその感覚に出会いたくて追い求めるという気持ちはわりとよくあるのではないでしょうか。

 

自分の好きなものって、そういう経験から生まれるよね?

 

だから僕はゲームを見捨てない。たとえみんなが見捨てても、僕の事は嫌いになってもゲームの事は嫌いにならーはいはい。

 

さて、また長くなってきましたが、昔のゲームのじじい談義を書いていても面白くないと思うので、一応最近買ったゲームの話もしておこう。

 

 

ラピス・リ・アビス - Switch

ラピス・リ・アビス - Switch

 

 

いわゆるハクスラアクションゲームである。

 

もっと平たく言えば、何も考えないでボタン連打してたら、いろんな宝物がザックザクで時間つぶしに最適なゲーム。

 

あれ?これってスマホゲームみたいなもの?

 

うん、そうそんな感じ。

 

課金要素の無い(今後あるかもしれないが)、スタミナゲージも無い連打ゲーム。

 

目新しい要素はほとんど無い。

 

でもよくできている。ここをもうちょっと改善すればというのは無きにしもあらずだが、たぶんこういうゲームだよねと想像した水準は満たしていて特に大きな不満は無い。

 

お涙頂戴映画を泣くつもりで観に行ったら、やっぱり泣けました。でも、誰かに熱く語るほどのオススメはしないが、自分は好き、みたいな感じの作品。

 

プレイ動画を見れば、好きかどうかはすぐ分かるタイプのゲームだ。

 

ただ、売り上げとしては難しいだろうなぁと思う。このジャンルの名作とは比べるべくも無い。こういうソフトは発売日初週の勢いを保つ事はほぼ無理で、ユーザーの期待値を裏切る隠し要素や職人並みの作り込みが無いと売れない部類だ。

 

それでも僕は果敢に挑戦して欲しいと思うし、応援したい。特に日本一ソフトウェアはやり込み要素を売りとした名作が多いし、時にユーザーを裏切るような果敢に攻める作品もあるので期待している。

 

そういうソフトを見捨てないで欲しい(以下略)

 

噂ではPS5は今までのPSソフトが全てプレイできる仕様になるのではないかと言われている。特許申請された技術からそういう憶測が生まれているらしい。

 

ただ、それはほぼ間違いないと思う。

 

というのも任天堂ソニーもこれまでいくつかのハードでそれをやってきたし、すでにダウンロードで購入したソフトが無になればこれまでゲーム産業を支えてきたユーザーは怒るに違いない。

 

仮に新ハードにその機能が無いにしても、何らかのサービス(スマホでできるとか)を設けざるを得ない。もし、それができなくなったら、ますますゲームが売れなくなるのではないだろうか。

 

スマホゲームなら、機種変にも対応しているし、かつてのアプリはほぼ使用できる。中にはオンラインゲームのように運営が難しくなって廃止されるものもあるが、人気があれば新シリーズとして登場する。

 

ライバルがそういうシステムである以上、かつての遺産を利用するのは自明の事である。

 

ただ、それはかつての名作と新作を同時に目にするという事を意味し、安い名作と高い新作ならどちらが得をしそうかという競争になる。

 

そこで、やたらとリメイク作品や移植作品、シリーズを復活させた上での続編が作られる事になるのだ。

 

そして、大抵そういう作品はかつてのユーザに酷評され、今のユーザに受け入れられる事も難しい。

 

かつてゲームソフトは10万〜100万本売れるのが普通であり、ヒットソングのようにいくつものメガヒット作品が林立していた。現在も一部のソフトは200万本を超えるものもあるが、シリーズ作品である事が多い。

 

その意味で今や任天堂の代表作にまで成り上がったスプラトゥーンの登場はほとんど奇跡と言える。

 

でも、やっぱり面白いソフトというものは存在し、生まれている。

 

特に僕がゲームに期待するものは、かつてない体験やアイデアだ。そういう意味ではVRもまだまだこれからだと思うし、携帯ゲームとスマホ、据え置きゲーム機とパソコンの競争については興味がある。

 

gameには遊びの他にも試合や狩猟における獲物という意味もあり、何かと競争したり、追い求めるようなイメージが含まれている。単なる時間の浪費ではなく、常に刺激を受けるゲームという娯楽を僕は愛して止まない。

 

 

 

頭がいいとはどういうことだろう?

 僕は入試問題で結構苦労した方なので、受験から随分経った今でもその呪縛ともいうべきものから離れられないところがある。

 

そう書くと、何だか受験勉強が悪しきもののように思えるかもしれないが、感謝の部分が大きい。

 

というのも全く勉強ができなかったので、(ある程度)できるようになった時に目からうろこが落ちた経験をして、いろんなものが見えるようになったからだ。

 

これは何も人に見えていないものが見えるようになったというオカルト的なものではなくて、いわゆる頭がいいと言われる人はどういうものが見えているのかを想像できるようなったという方が近いかもしれない。

 

あくまで「想像」としたのは、依然として頭のいいと思う人との差を感じるからなのだが、そう感じられるようになっただけでも成長したのだと思う。

 

眼鏡の度が上がったという方が分かってもらえるだろうか。

 

仮に今、全く無知な医学を勉強することになったとして、どう勉強するかと考えた場合、昔の僕なら専門書を一読して、すぐに諦めていただろう。

 

でも今の僕なら、まずは基本書を数冊買ってきて、何が基礎力となるかの平均値を測る。専門用語も覚えなければいけないだろうし、人体の仕組みや理論も学ばないといけないだろう。

 

試験を受けなければ資格は得られないし、そのためには大学受験も必要だから入試から逆算してスケジュールを立て、ある程度勉強が進めば、過去問題で出題傾向も知らないといけないだろうと推察する。

 

と、誰でも思いつきそうなことを書いているけれど、昔の僕はそうではなかった。

 

なぜなら、非常に真面目であったからだ。

 

言い換えれば、効率を考えなかった。バカ正直と言ってもいい。

 

試験というものはドリルや小テストの延長だと思っていた。しかも時間が無制限に近い、宿題のようなものだと。

 

極論すると、全ての問題に答えること、満点を取ることが勉強だと思っていたのである。

 

予備校に通い始めて、いろいろ考え始めた時、どうやら勉強と試験勉強は違うようだと気づいた。

 

書きながら今ふと思い出すのは、中学校の理科の先生の話だ。

 

「大学のテストは持ち込みオッケーなんだよ」という言葉に生徒は驚く。

そこで生徒は次々に質問を始める。

参考書は?辞書は?本は?

「何でもオッケーです。ただし、誰かに相談するのは無し」

生徒は一様に信じられないという反応をする。

「だって答えは載ってないから。自分で考えるんだよ」

先生から特にそれ以上の説明はなかった。だから僕はその時、大学生ってずるいなーと思った。

 

今それについて先生に聞き返すことはないけれど、きっとこういう事かなと思う。

 

おそらくそれは知識を問う問題ではない。そして、何かの本を引用するだけでは答えられないような問題なのだろうと。

 

中学生の僕にとって、答えというものは何かの参考書や教科書に載っているものであった。

 

例えばそれは、ある時は歴史の年号であり、漢字の読み仮名であり、英単語の意味であった。

 

しかし、本来勉強というものは自分で何かを学び取り、考えることが本質だと僕は思う。

 

ただ、試験という何らかの能力を測るものには自ずと採点基準を設けなければならない。

 

そして、そこには点を取るための解法や試験勉強法が生まれる。

 

先ほどの話は、中学生の僕には「勉強をしなくても受けられる試験=ずるい」であったけれども、その「勉強」とは半ば強引に言えば、「暗記で解答できる」「調べれば解答できる」勉強と同義と考えていたのである。

 

もちろん、その試験はそんなに簡単なものであるはずはない。実際は、日頃の勉強が試される対策がしづらい試験であった事だろう。

 

そこで教授が試しているものとは、基礎的な知識もさる事ながら、論理的な文章力や数式ではなかったかと思う。しかもそれは当然のごとく制限時間を伴うため難しい試験だろう。

 

試験勉強というより、学問の本質を試すような本来の意味での勉強であったのではないだろうか。

 

話を試験勉強に戻すと、僕は試験は満点を目指すもの、そして全てに答えなくてはいけないものだと思っていた。

 

もちろん、問題はできるだけ解けた方が点数も高くなり、合格率も上がるだろう。

 

模試なら正答率によって合格判定の大学も変わってくる。ただレベルの差こそあれ、合格には合格基準点があり、それはつまり満点でなくてもいい。問題を取捨選択する判断力も必要なのだ。

 

前から順番に解いて行って、時間が足りなくて答えられたはずの問題を失点し後悔した事も何度もあったが、そもそも答えられる問題が少ないので、ただ漫然と解くしかなく、効率良く問題を解く事など夢にも考えなかった。

 

ましてや、問題の「質」についてはほとんど考えたことが無かった。なぜなら、質について考えられる程にたくさんの入試問題を解いたことがなかったのだ。

 

だから、どんな問題もドリルの延長で解けるものだと思っていた。

 

例えば、ただただ足し算や掛け算がずっと長く続くような。難解な漢字をひたすら暗記するような。単純作業を煩雑にして時間さえあれば解答できるような問題だと。

 

ゆえに、英語はひたすら英単語を繰り返し暗記して、その延長で文章が読めると信じていたのである。確かに延長にあると言えばあるが、それだけでは読めるようにはならない。

 

また、基礎的な単語の暗記はある程度必要だとしても、それ以上は暗記では補えない。暗記したものは忘れていく。特に興味なく暗記したものは。

 

改めて言うことではないかもしれないが、同じ語学という観点から日本語で例を出してみよう。

 

紐帯、喃語、擯斥、虚仮、黙契、涵養、吾人、擱筆濫觴、開架、彫琢

 

それぞれ意味が言えるだろうか。

 

言えるという方はそれでいい。大したものだと思う。その人はこういう言葉にどこかで出会い、自分の頭で考えた経験があって身についているのだろう。

 

でも、説明できなくても特に困らないのではないだろうか。

 

今例に出した言葉は、僕が何かの本を読んで知らなかったものをノートに書き留めた言葉だ。ここで知らなかったというのは、一度も見た事がないというものもあれば、人に説明できるほどではなかったものも含む。言うなれば、僕が文章を書く時にすぐには浮かばない言葉である。

 

こういう言葉はクイズや問題集は別として、ただ羅列されるわけではない。文章の中に組み込まれて目にするものだ。だから、母国語なら何となく意味が分かるし、分からなければ飛ばして、全体の文意をくみ取ろうとするはずである。

 

もし、それでも気になったらネットや辞書で調べるのではないだろうか。

 

であるなら、英語を使う人も同じはず。言葉はたくさん知っていた方がいいとは思うが、辞書を始めから終わりまで覚える必要は普通は無いのだ。

 

こう書くと、何でも反論したい人は、英語と日本語では発想や文章の構造が違うではないかと言うかもしれないが、語学という観点からと断っている。母国語の文章を読む時に辞書を常に脇に置いて読む人はそう多くはないのだから、単語をたくさん知る事だけが文章を読めることにはならないと言いたいだけである。

 

実際、専門書を理解できないのは単語だけの問題ではないし、その専門書を読むには一定の論理構造を理解する必要がある。

 

さて、ここまで長々と書いてきたのは実は前振りである。英語の学習法や試験の話をしたいのではない。それを語りだしたら、いろいろと議論が始まってしまう。

 

今日のタイトルをもう一度繰り返そう。

 

「頭がいいとはどういうことだろうか?」

 

そう、僕はそれについて考えて書いている。

 

もしも、最初にこのタイトルを見てすっかりその事を忘れてここまで読んでいるとすれば、きっとその人は文章を考えて読むのが苦手なのではないだろうか?

 

逆に何だかダラダラと文章を書いているけど、お前はいつになったら論じるのだとイライラしている人は、僕から見れば頭がいい人だと思える。そういう人に向けてこれから書きたい。

 

では本題へ。

 

 先日紹介したAIに関する本をものすごーくかいつまんで言うと、AIには読解力が無い。だから人間を超えることはできないという事でした。

 

ではどうすれば、その読解力を養う事ができるのかは明確にはできません。

 

ただ、独自に開発したテストで測ることはできます。

 

そのテストは何を目指すものかと言えば、教科書が読めればいろんなものを学ぶ能力があると言えるという結論でした。

 

ここで、僕なりに解釈を加えると「読解力」とは「思考力」ではないかと思います。

 

なぜなら、

AI vs. 教科書が読めない子どもたち
 

 

この本におけるAI(技術)とはコンピューターのことで、そのコンピューターとは計算機の延長で、極論すればAIは「思考しない」のです。

 

あくまで数式に置き換えて計算するだけです。詳しくは読んでもらうしかないのですが、そういう結論です。

 

では「思考する」とはどういうことでしょうか。

 

それは今まさにこの文章を読んでみなさんが考えている状態です。

 

ではその思考力は何で養えるのでしょうか。

 

本の中では明確化はされていません。

 

そりゃそうですよね。

 

思考力なんて測りようがないですよね。

 

ただ、何かに対する思考力なら測れるものがあるのです。

 

あるからテストでそれを測るわけです。

 

では、そのテストで測れるものには勉強法が生まれるのではないでしょうか。

 

なぜなら「テスト」ですから。

 

これまでのブログで、大勢の人を公平に試すテストには基準が無いと採点できませんと書いてきました。基準には解法が生まれます。

 

そう、それが僕の考えなのです。入試問題は教科書を基準としています。だから教科書が読めたり、分かる勉強法を学べばいいということになります。

 

そんな事を思いながら読んだのが、

試験勉強という名の知的冒険

試験勉強という名の知的冒険

 

 

こちらの本には、入試で問われるのはどのような能力かと言うものが、問題形式別に語られています。

 

何だ、受験の参考書かと思うのは早合点です。

 

これで全ての問題形式を網羅したとは書いていないと釘も刺されています。富田先生が言いたいのはどういう能力が問われているかという事です。

 

いわゆる偏差値の低いとされる大学の問題と高いとされる大学では問題形式は同じでも問われる質は違います。

 

例えば、英語の長文があって下線部が引かれ、それについての設問があるとして、何も勉強がした事がない頃の僕には、大学のレベルの違いで問われているものに質的な違いがあるとは思いもしませんでした。

 

すでにある程度、受験勉強をした事がある人には既知でしょうし、ここまででも十分に長い文章ですから、問題を解説し始めるわけにもいかないので、あくまで一例という事で進めますが、

 

簡単な傍線部の問題は、極端に言えば長文を読まなくても解答できます。

 

なぜならそれは一問一答に近い知識を問うものだからです。

 

下線部の意味に近いものを選べという選択肢には、類義語や反意語、無関係な単語が並び、4つある選択肢には明らかに1つだけ正解というものがあります。

 

でも、レベルが高くなるにつれ、同じ形式の傍線部問題は巧妙に仕組まれていきます。

 

それを富田先生は雑音とたとえていますが、注意力、抽象的理解力などいろんな思考力を総動員しないと答えることができないようになっています。

 

時には、選択肢の中に完全な正解がない場合、相対的に見てキズが少ないものを選んだり、選択肢に使われている全ての単語が分からなくても、消去法で正解を選ぶ判断力が試される問題もあります。

 

難解な単語に注釈を与えず、あえて意味の近い選択肢を選ばせ、正解した者だけがそれを手がかりに全体の文意を解釈できるような巧妙な仕掛け方もします。

 

僕が経験した問題で言うと、例えば英語における内容一致問題。長文を読ませて内容が合っているかどうかを選択肢から選ばせる問題です。

 

分かりやすくデフォルメしますが、とある模試で次の文章を読んで内容の一致するものを選べという問いに解答枠は5つあります。選択肢は10個です。

 

その時点で、答えは5つあるという事は分かるでしょう。それは記述式と違って、選択式ゆえの手がかりとも言えます。これも言わば、受験テクニックの一つです。

 

そこで真面目な僕は、何問も内容一致を解いていきます。制限時間に焦りながら、ひたすら速く。

 

「内容が一致するものを選べ」という問いの繰り返しは続きます。

 

同じ質問を繰り返されて、僕はだんだんうんざりしていきます。ああ、面倒臭い。

 

そして、僕はその問題を解き終えます。

 

手応えあり。

 

そこで、後日採点結果を見てびっくりします。

 

思ったより点が低いのです。復習のために問題と解答を見比べます。間違っているところは特に重点的に。

 

おかしい。

 

内容一致の問題で自信があったのに間違えているものがあります。なぜ?

 

改めて見直すと、

 

その問題は、内容が一致「しない」ものを選べ、だったのです。

 

つまり、僕はそれまでの問題と同様、内容に一致するものばかりを選んでいたので、その問題も「一致する」ものを選んでいたのです。

 

しかも、この問題の解答が一致するものが3つで一致しないものが7つなら、5つの解答枠に合わないので疑問を持ったはずですが、一致するものと一致しないものが同数ゆえに今までとは逆のものを選ぶ問題であることに気づかなかったのです。

 

もちろんこれは気づけないように仕組まれているのです。

 

そして、この問題だけ他より配点を高くしているのが入試問題なのです。

 

ここで見られている能力とは、英語の力だけではないことは言うまでもありません。もう一度繰り返しますが、これはたとえ話ですからちょっと極端ではあります。

 

レベルの高い問題には、これに類するいじわるクイズのようなものが手を変え、品を変え出題されます。ある時は問題文そのものに先入観を植え付けさせる表現を用いたりもします。

 

誰かを落とすのが入試問題である以上、それは致し方ないでしょう。

 

でも、ここで問われている能力をくだらないと一笑に付すことができるでしょうか。

 

ある時、ネット販売の商品価格が1桁間違っていて、注文が殺到し問題になったことがありました。

 

試験で言えば、これはケアレスミスです。公表前にも何人かの人が見ていたはずです。

 

しかし、誰も気づかなかった。

 

数字に強い人、データに強い人、誤字・脱字に気づける人、いろんな能力があると思います。

 

例えばこのブログを読みながら、本題に入る前と後で、語尾の口調が「です・ます」調に変わった事に違和感を感じる人は文章というものに対して普段から繊細な気遣いをする人でしょう。それも能力です。

 

そういった能力が必要になる場面を経験した事はあるでしょう。

 

元々そういう能力が突出している人は別として、これらはある程度訓練で養うことができると僕は思います。

 

一を聞いて十を知るタイプの天才はいます。しかし、同じ文章を5回読んで理解できればスピードはともかく並ぶ事はできます。

 

ただ、その読み方に問題がある場合は訓練が必要です。

 

試験は人工的なものです。人工的であるがゆえに必ず解答があり、解法があります。そして、その問題は誰かがどこかで経験した問題から作り出されるものです。

 

当たり前ですが、未知の問題は存在します。答えの無い問題も数多くあります。

 

でも、かつて解決不可能と思われた問題が今では解決しているものもあり、その解決法に必要とされた能力を問う問題を作ることは可能です。

 

もちろん全てが具現化できるわけではないでしょう。具現化できるものを問題として作成し、能力を測定していると言い換えてもいいでしょう。

 

だから、全ての問題が解決出来るようなスーパースペシャルな能力を試験で測ることはできないにしても、その一端くらいは測ることができます。それすら否定してしまったら、いろんな分野の発展も否定することになるのではないでしょうか。

 

試験の結果から自分の限界がどこにあるかを知ることで、自分に向いているものは何かが明確にされます。

 

頭がいいとは何を指すかにも依りますが、勉強というくくりの中で頭の良さを語るならば、思考力が最上位にあるように僕には思えます。

 

試験勉強には思考力が不可欠であり、レベルの高い大学はそれを求め、試してきます。良問を作る人に思考力がある事は言うまでもないでしょう。そして、そういう人が何らかの発展をリードしていく可能性が高い。

 

誤解して欲しくないのですが、大卒が偉いと言いたいのではありません。大学を出ていなくても、いわゆる地頭がいい人はたくさんいます。

 

逆に大学を出ていても(正確には受験勉強を経ていても)、大学のレベルに関係なく、思考力の無い人はいます。

 

ただ、何かについて思考するという事を軽視して失敗してきた経験は誰しもあるのではないでしょうか。

 

そんな時、何らかの思考訓練をしたいなら入試問題は有効であると多くの人が証明していませんかという話です。もし有効でないなら、試験に変わる何かができているはずです。

 

それは読書かもしれないし、頭の体操のようなクイズかもしれませんが、時代に合わせた試験問題の変遷はともかく、何かで訓練するしか効率良くは養えないでしょう。

 

エリート大学を卒業した人の勉強法が知りたかったり、ある分野で成功した人の本がベストセラーになるのも効率良く学べる何かを追い求めた結果でしょう。

 

長くなりましたが、話を勉強に関して限定するなら、試験勉強と無縁ではなく、その試験とはAIには無い能力を測るものであり、AIを開発する人もまた試験勉強をしてきた人であるというのが僕の結論です。

 

だから、試験勉強が無駄とは言えないと思います。少なくとも「全く」ではないでしょう。

 

富田先生の本はそんな事を漠然と考えていた僕に、試験問題を題材にしながら、面白おかしく読ませてくれるものでした。

 

ある程度、単語を覚えたらこちらの本もおススメ。語源から単語を類推するだけではなく、思考力を広げるヒントが散りばめられています。

The Word Book とみ単

The Word Book とみ単

 

 

 

こちらは今日紹介した本の続編です。

キミは何のために勉強するのか ~試験勉強という名の知的冒険2~

キミは何のために勉強するのか ~試験勉強という名の知的冒険2~

 

 

進撃の巨人はやっぱり面白い

今更ながらシリーズ。

 

 

情熱大陸であまりに素朴な作者にびっくりしつつ、21巻で放置していた進撃の巨人

 

毎回新刊を買いつつも、だんだん理屈が頭に入らなくなってきて読み返すのも面倒になり、完結したらまとめて読もうと思っていたのだけど、huluの美しいアニメに引き込まれつつ、続きが気になり、結局最新刊まで買ってしまうハメに。

 

だってアニメじゃ全然原作に追いついていないし、待てるわけないw

 

そして、改めてまとめて読むと、レビューに散見される手垢のついた言い回しで恐縮ですが、一体、どこまで考えて描いてるんだというくらい伏線の回収が見事。

 

ネタバレは避けますが、

 

24巻でこの物語の始まり、超大型巨人が壁を覗く衝撃的なシーンの舞台裏とつながるなんてすごいとしか言いようがない。

 

これは例えば悟空のしっぽがスーパーサイヤ人につながるような後付けではなくて、カイジデスノートのような結末から組み立てる創作方法でなければ説明がつかない。

 

これまでにも進撃の巨人はいくつもの中級クラスの伏線回収の積み重ねがあり、その度に一体どんな頭してるねんとため息をついてきたわけですが、壁の内側が外側に変わるような展開(それ以上は言わないので未読の人は許して)はただただ驚嘆。

 

これまたよく言われることだけど、記憶を消してもう一度最初から読みたい漫画です。

 

そりゃ大きな物語の流れは絶対に考えていたでしょう。でもね、それだけじゃない構成の巧みさがありますよね。

 

全部ネームできてたんじゃね?みたいな。

 

それをちょっと手直ししてんじゃね?みたいな。

 

情熱大陸のネームで悩むシーンはやらせじゃね?みたいな。

 

そう思わすほどによくできてる。いずれ1億冊の累計になって、殿堂入りするのも間違いないですね。

 

次巻はもうすぐ発売。情熱大陸を見る限り、完結は近そうです。ここまで緻密に描かれてきて、作者の才能はもう十分に証明されているので、後はどのような結末になろうとも受け入れられます。

 

紅天女と同じ。

 

諌山創、おそろしい子。

 

 

ガラスの仮面 49 (花とゆめCOMICS)

ガラスの仮面 49 (花とゆめCOMICS)

 

 

 

 

AIの限界とは?

本屋で見かける気になる本シリーズ。

 

AI vs. 教科書が読めない子どもたち
 

 結論から言うと、とても面白い本だった。

 

しかも途中でダレることなく、ページをめくるのがもどかしいほどに。

 

著者の結論はサンプルでも読める序文にすでに示してあります。

 

つまり、AIとはルンバとかsiriに代表されるようなAI技術のことであって、人間の代わりになるようなAI(いわゆる一般的に使われるのはこちらの意味)ではない。

 

そして、AI技術は数学の理論でできている以上、限界がある。

 

一定の条件やルールの下で行われる囲碁や将棋では、AIが人間に勝ったという話を聞くと人間を凌駕したというイメージから安易にターミネーターのような人類対ロボットの構図を描きがちだけれど、数学が根底にある以上は人間を超えることはできない。

 

超えたのは一部の分野である。計算できるものは確かに得意だが、それにはベースとするデータが必要である。

 

だから、グーグル検索のような決まった形式の問いには答えられるが、知恵袋のような質問には答えられない。なぜならそれに答えられるデータが無いから。

 

いや、ネット上にはたくさんの参考となる例があるではないかと思うかもしれない。

 

でも、そのデータの信頼性は人間が判断し、基準を作らないといけない。

 

いやいや、それもある程度、類型化できればAIに任せて学習させればいい。

 

確かに。

 

事実、siriの質問に対する精度は上がっている。ただ、使いながらこういう質問の仕方はダメなんだなと人間が合わせているのも現状。

 

つまり、まだまだ発展途上。類型化のパターンが少ないものに限られる。

 

人間の脳が数学的に解明されていない時点で、すでにAI技術が人間に代わることはできないと証明されているのと同義。

 

なんでもAIに任せてしまえと思える人はこの本を読めば、それが幻想に過ぎないことが分かります。

 

大学入試の問題をAI技術に解かせると中堅私大に受かるところまでは来ているらしい。だったら、いずれ東大入試さえも合格できるのでは?と思うのも早計。それも先ほどの理由と同じで幻想に過ぎない。AI技術が答えられない問題があるのだ。

 

その「いずれ」は少なくとも後50年くらいでは訪れそうにはない。数学が今より格段に進歩した遠い未来に可能性があるという程度。

 

では、そのAI技術がこなせる仕事が増えた場合はどうなるか?

 

先ほどの理屈で行くなら、AI技術以上の能力を持つ人は安泰となる。

 

あくまで入試に限って言えばということにはなるけれども、中堅以上の大学に入れる人は大丈夫。

 

えっ?

 

じゃあ、ほとんどの人はAI技術に乗っ取られるではないか!

 

まさにそれについて考察しているわけです。

 

私は上位に入っているから大丈夫?

 

でも社会を支えているのは、上位の人だけではありません。

 

生活するには仕事があり、その仕事には必ず(間接的であっても)相手がいるわけで、その無数の相手が社会であり、そのうちの一人が例えば僕です。

 

タイトルにある「教科書が読めない子どもたち」とは著者が作り上げたテストを通じての判断ですが、まず教科書というものが読めなければ日常生活でも支障をきたしますし、大学に進むかは別として、何かを学ぶ際にも障害となるという意味で教科書を基準にするのはうなずけます。

 

ではそのテストの信頼性はどこから来るかと言うと、中堅私大に合格できる能力を備えたAI技術がデータの基になっているのです。

 

なんだ結局、学校の話かと思えばそれまで。

 

でも、もし全く学校教育を受けなければ、僕らは生活に随分困るはずです。社会の常識となる部分は学校教育が基盤であることは認めざるを得ない。

 

では、何が足りないのか?

 

言い換えれば、AI技術でも解けない問題に必要とされた能力は何かと言えば、「読解力」であり、つまりは教科書(すら)読めない学力はAI技術と変わらないから危ないとなるわけです。

 

随分周りくどい書き方をしたけれど、なぜそうなるのか。

 

AI技術は「読解」をしません。あくまで数学的にデータベースの中から類似解答を照合して解答します。そして、入試のある問題にはその方法で正答が出せる問題があり、それに適した問題を出す大学なら合格もできる。

 

教科書が読めない学生は、独自のテストを受けさせると、表面的な読み方だけをして、膨大なデータベースから照合作業を繰り返すAI技術にある意味似ており、テストの結果だけを見れば、AIの正答率を下回る人が予想以上に存在する。

 

と言うことは、過去に教科書が読めない子どもであった大人はAIに職を奪われる可能性が高く、これから大人になる子どもたちはますますその傾向にあるのです。

 

では、「読解力」とは何か?それが必要とされる職業とは何か?それについては本書を読めば分かります。

 

ですが、肝心の読解力はどうすれば養えるか?については明確な答えはありません。

 

読書する人には読解力があると誰もが思うでしょうが、調査結果では否定されています。読書好きの僕としては全否定ではないとは思いたいですが、いろんなテスト項目との相関関係が見られなかったというのは事実です。

 

ただ、読書にも読み方はあると思います。

 

かつての僕はこのブログでも紹介しているように、なんとなく文章を読んでいました。目で文字を追っているだけで意味を理解していない状態にあったと思います。

 

それが現代文を勉強したことで意識が変わり、あの頃よりはいろんな本から意味を理解し学べるようになったと思っています。

 

著者はこの本の印税を受け取らず、開発された独自のテストを少しでも多くの学校に無償で提供できる費用に回すそうです。

 

目的は全ての中学生が卒業までに教科書を読めるようになること。それはAI技術と共存するこれからの社会に必要な能力なのだと結びます。

 

これはあくまで一論考かもしれません。でも、10年前には考えられなかったことが現実化しているなと実感しました。

 

AI技術ができることとできないことを知っておくのは僕にとってはなかなか有意義な経験でした。気になる方はどうぞ。

 

 

改訂新版 ロボットは東大に入れるか (よりみちパン! セ)

改訂新版 ロボットは東大に入れるか (よりみちパン! セ)

 

 

 

 

 

みたび中学聖日記と大恋愛

ああ、悶々とするw

 

あっ、申し遅れました。

 

悶々星から来た悶々太郎です。

 

みたび紹介するほど、相棒より楽しみなドラマ。

 

朝ドラのドリカムの曲が頭から離れないのも困ったものですが、ほぼ毎日見れるドラマと1週間待たなければ続きが見られないドラマとではストレスの度合いが異なります。

 

で、さきほど見終えたのが、

www.tbs.co.jp

 

毎回いろいろとやきもきさせられるのですが、クーっとなりながら結局最後まで見てしまい、次週の続きが気になるのがハマっている証拠。

 

ここに出てくるキャラがみんなよく分からない人達で、なかなか笑わせてくれます。でも、時々切なくなるのもいい。

 

瞬間移動を体得しているはずのキャラが、今日に限ってはぶらり一人旅風になり、偶然にしてもできすぎやろ的シーンが結構な頻度で起きます。

 

でも、なんだろ鼻につかない感じが好きかもしれない。

 

ドロドロの修羅場で、ドヤ顏ポイントを作っておきながら、案外あっさりとシーンが変わり、常識ありそうな人間が急に泥くさくなったりする。

 

今やってるドラマなのでネタバレしないように書くと何だかよく分からないかもしれないけど、そんな感じである。

 

ツイッターを見ながら、いろんな人の反応を見ていると同じシーンを見ていても結構感想が違うもんだなーと思うので、どの立場に立って見るかでさらに楽しめそうだ。

 

15歳で生徒だから担任教師と恋愛できない彼が、18歳で他校の生徒ならどうかなんて、正直全く無縁の世界なんだが、気恥ずかしいセリフに悶絶する女子高生のような感覚で見てしまう。

 

悶絶する女子高生という表現があまりにおっさん臭くてキモいが、まぁそんな感じで見てしまうのだから仕方がない。はじめてのおつかいを見ているような感じというべきか。とにかく、わーぎゃー、もう、クーなのである。

 

さて、もう一つのTBSのドラマの話もしておこう。

 

www.tbs.co.jp

 

アルツハイマーにかかった戸田恵梨香が売れない小説家(現在の話では復活)と恋愛に落ちるラブストーリー。

 

もうこれは泣けますよ、という展開見え見えの設定で、実際やっぱりなかなか泣かせてくれる話で二人は結婚というところで第一部的展開を迎えたのだが、

 

先週は、最後にホラーな展開で終わってしまい、ええーっと思わず声が出そうなくらいの裏切り感で放置されてしまった。

 

ひぐらしまどマギのような裏切りを全く想定していなかったのは、僕だけではないようで、ツイッターを見ると、その展開はいらないという意見が結構あった。

 

でもさ、

 

でもね、

 

そうやってハマれるものがあるのは幸せじゃない(誰?)

 

作り物だからこそ、何が起きても最後はドラマだしと片付けられるだけいいじゃない。

 

ゴーンの横領よりいいじゃない。

 

続きが楽しみです。

 

 

恋したっていいじゃない

恋したっていいじゃない

 

 

同音異義語って面白い

たまには国語の授業を思い出して同音異義語クイズでもしてみませんか?

 

では、「しこう」と聞いて浮かぶ漢字をなるべく多く書いてみましょう。

 

まぁ、普通に出てくるのは、「思考」「嗜好」「歯垢

 

でも、

 

志向

施工

施行

試行

指向

至高

至行

至孝

私考

私行

私交

死交

紙工

試航

 

となってくると、なかなか浮かばないものも多い。

 

 

では、もう一問。

 

「しせい」

 

「姿勢」「市政」「市井」くらいならまぁ。

 

刺青

市制

試製

至誠

死生

私生

雌性

氏姓

至正

 

など、読めはすれど、なかなか難易度が高いと思う。

 

では、最後の一問、

 

「せいちょう」

 

まずは成長。

 

でも、辞書で調べるとずらずらと載っている。

 

ちなみに英語で辞書を引く時に使う動詞はconsult。相談するとは面白い。人に使うと意見を聞くイメージだけど、辞書さんにも聞いてみるという感じが好きだ。

 

という事で解答をずらっと並べてみる。

 

生長

声調

成鳥

政庁

清澄

整腸

正調

性徴

征頂

 

他にもあるけれど、字面を見て意味が分かる人は普段から言葉に対して敏感な人だろう。少なくとも変換の文字を選択する時に何かしらハッとできる人だと思う。

 

日頃から言葉に対して、思考する姿勢が成長につながると思います。