はずれスライムのつぶやき

どうでもいいことについて適当に考察していきます

なくはcryか?

泣くならcryである。

 

もちろん泣き方にもいろいろある。

 

涙を流して泣くなら、shed や tearsもあり、すすり泣くなら weep、泣きじゃくるならblubberらしい。

 

でも、「なく」にはもう一つある。

 

「鳴く」だ。

 

犬がワンワンと吠えるならbark、キャンキャンならyelp、小鳥はsing

 

でも、日本語なら鳴くでも表現できないことはない。

 

小鳥の場合はさえずるという表現もあるけど、日本語は擬音で表現できるので、

 

ワンワンと鳴いていたやキーキー鳴いていたと表現できるから楽だ。

 

豚がブーブー、ねずみがチューチュー、からすがカーカーで通じる。

 

英語だとそれぞれに対応する単語が用意されているのは、考え方の違いなのだろう。

 

日本人が英語の表現に驚かされるということは、逆に言えば英語を使う人も驚いたり、奇妙に思うに違いない。

 

よく言われる名詞表現も日本人にはかなり奇妙だ。

 

 

英文法解説

英文法解説

 

 から例文を引くと、

 

He is a good swimmer.  彼は泳ぎが上手い

 

I had a good sleep last night.  昨夜はよく眠れた

 

は、日本語から簡単に英訳できそうでいて、なかなかできない発想だ。

 

また、英語から日本語に訳すのにも頭の中で体操が始まる。

 

こういう表現に出合う時、僕は面白いなぁと思う。

 

単なる単語や表現の違いと言えば、それまでだけどこんなに発想が違うのはなんでだろうと思うのだ。

 

日本語でも漢字の成り立ちを知ったり、面白い言い回しを見つけるとちょっと得した気分になる。

 

かなり昔に書かれた文章を読んで、変わった熟語や文化を知るのも面白い。

 

もし、今エロかっこいいと言ってもおそらく通じないだろう。

 

一杯のかけそばが、インスタ映えするとシェアされたら泣けるものも泣けない。

 

暗い話はcry話ではないわけですな。

 

 

 

 

ぼくらの少年探偵団

 ポプラ社という出版社を聞いて思い出すのは、

([え]2-2)少年探偵団 江戸川乱歩・少年探偵2 (ポプラ文庫クラシック)

([え]2-2)少年探偵団 江戸川乱歩・少年探偵2 (ポプラ文庫クラシック)

 

 

ちょっと硬めの表紙に独特の挿絵。

 

小学校低学年の頃、少しひんやりした床に紙特有の匂いに包まれた図書室で出合ったのが少年探偵団シリーズでした。

 

そして、それが僕の初めて触れたミステリー小説との出合いでもあり、未だに好きなジャンルは推理小説です。

 

江戸川乱歩という名前の特異さが、エドガー・アラン・ポーからきたペンネームだなんてことはもちろん知らないし、ましてや不動の人気を誇るコナンくんに引き継がれるなんてことも知るはずもないわけで。

 

江戸川乱歩=暗い=怖い

 

というイメージを植え付けられた作品でもあります。

 

子ども向けに書かれた小説とはいえ、今でもその世界観はドラえもんと同じく古びない。

 

あの独特の文章を読むだけでフッと幼少期が蘇る。

 

下校時に怪しい老人の後をつけると蝋人形の館があるような。

 

夕暮れが恐怖に包まれる孤独感。

 

でも、今から考えるといろんな変装で子どもを待ち受ける怪人はかなり狂ってる感じがする。

 

まず、学校が終わるまで彼はどうやって子ども達を誘惑しようかと考えます。

 

おそらく全身を鏡に映しながら、ふんふふんと鼻歌まじりにお出かけ前のお嬢様気取りで衣装を選び、高須医院長もびっくりの特殊メイクを施していく。キモッ。

 

ヒルナンデスが終わり、ミヤネ屋も終わろうとする頃、彼は通学路や公園で子どもたちを待ち受ける。

 

紙芝居で子どもの心をつかみ、狙いの子どもに気を引くような仕掛けをして、とぼとぼと老人のふりをして歩き、子どもをおびき出す。

 

内心ひやひやしながらも、まんまとついてきた子どもににんまりとし、明智小五郎に挑戦状を叩きつけるべく誘拐するのだ。

 

変態やん。

 

ていうか、普通に誘拐すればいいじゃん(問題発言)

 

今ならさしずめツイッターやLINEで不審者連絡されて、簡単には成功しないだろう。

 

子どもは安全ブザーを持ち、スマホで実況さえしているかもしれない。GPSだってついている。

 

きっと当時のメイク技術も女子校生の詐欺メイクすっぴん動画と比べれば、足元にも及ばないものだったろうと推察する。

 

怪人は時に追いつめられると姿を消す。

 

ある時は、本の背表紙だけをのれんのようにつなげたものを背中に背負い、ムカデのような姿のまますっからかんの本棚に横たわって収まり、息を殺して書棚を演じ、

 

またある時は、巨大なちょうちんのような物を広げ郵便ポストを演じる。もちろん息を潜めて、子どもが探す姿に小躍りしながら中の人になりきるのだ。

 

怪人というより変人である。

 

彼はもし追い詰められたら、この場所でこういう風にやり過ごそうと考え、危機が去った後、用意した物を片付けながら一人ほくそ笑むのだ。

 

うまく行っているからいいようなものの、失敗した時はただの間抜けである。

 

もし、それを実行する前に逮捕されたら、彼はストレスで発狂してしまうのではあるまいか。

 

そもそも少年探偵団というものが成立していることも現代なら大問題である。

 

なにしろサッカークラブとは訳が違うのだ。いつ何時、危険にさらされるか分からない。むしろその危険性は極めて高い。あろうことか子どもに後をつけさせる場合すらある。

 

もし明智小五郎が、少年探偵団を使って解決した事件を得意げにブログに書こうものなら、大炎上必至である。

 

明智もある意味幼児虐待だ。

 

そう考えると、コナンくん達の少年探偵団も親はどうしているのだろうと思ってしまう。

 

 

名探偵コナン (95) (少年サンデーコミックス)

名探偵コナン (95) (少年サンデーコミックス)

 

 

全ての回を見ているわけではないが、もう100巻にもなろうとするのに、親達が阿笠博士を訴えている話は見たことがない。

 

仮にあったとしても、ストーリーに影響を与えるほどの事はなく、うやむやになっているはずだ。

 

と、ここまで書いていて、そういう妄想する僕も変人だということに気づいた。

 

まぁ、何か熱く語りたくなるものがあるのは、やはり作品の面白さだろうとうっちゃっておこう。

 

クイーン、明智小五郎ポアロ、ミスマープルやルパンと怪人二十面相たちが戦うパロディの傑作はこちら。あえて旧版にしたのは表紙の絵も好きだから。

 

名探偵が多すぎる (講談社文庫)

名探偵が多すぎる (講談社文庫)

 
名探偵も楽じゃない (講談社文庫)

名探偵も楽じゃない (講談社文庫)

 
名探偵に乾杯 (講談社文庫)

名探偵に乾杯 (講談社文庫)

 
名探偵なんか怖くない (講談社文庫 に 1-2)

名探偵なんか怖くない (講談社文庫 に 1-2)

 

 

そして誰もいなくなった」に代表されるような孤島モノや密室殺人が起き、探偵が一堂に会し、名推理を披露するパターンはお約束ながらも、やっぱり好きです。

 

 

それを逆手に取った作品もあるわけですが、

名探偵の掟 (講談社文庫)

名探偵の掟 (講談社文庫)

 

 

 

名探偵の呪縛 (講談社文庫)

名探偵の呪縛 (講談社文庫)

 

 

真夏や真冬になるとゆっくりとぶ厚めの本格ミステリーが読みたくなるのは、きっと子どもの頃の乱歩体験のせいです。

 

 

【江戸川乱歩作品集・107作品・原作図表33枚つき】

【江戸川乱歩作品集・107作品・原作図表33枚つき】

 

 

読んでいるようで読んでいない文章

 趣味で文章を読むのなら、どういう風に読んでも自由であることは改めて言うまでもないことです。

 

たとえば、このブログを読んでどう思うかも自由。

 

僕があることについて書いた意見や感想は僕の自由であり、それに対してどう思うかはみなさんの自由です。

 

ですが、たとえば商品のマニュアルに書かれている注意事項を正確に読み取れなった場合、何らかの不利益を被ることはあります。

 

他の人に何かを伝えたい文章は論理が根底になければ伝わりません。法律なんて最たるものでしょう。

 

共通の体験をしている場合なら、「あの時の試合、感動したよね」で通じることもその試合を共有していない人には、どういうところが感動的であったかが分からなければ評価のしようが無いし、またそれを聞いても大して感動的でない場合もあるわけです。

 

それくらい何かを伝えることは難しい。

 

でも、最低限何かを誰かに伝えるには論理という文章ルールがないと伝わりません。

 

そういうことを意識したのは、僕の場合は現代文の入試問題だったわけですが、いまさら問題集で勉強なんて、という人にうってつけな本がこちら。

 

出口汪の論理力トレーニング (PHP文庫)

出口汪の論理力トレーニング (PHP文庫)

 

 

短い設問と例題で論理とは何かが訓練できます。

 

では、具体的にはどういうものか、第一問を紹介します。

 

(問題)次の文章の傍線部に対して、筆者の立場は肯定か否定か。それはどの言葉から判断できるか答えなさい。

 

狂気の主人公が登場する映画で、主人公が髪を振り乱し、血走った目で殺戮するシーンがあるのですが、観客に何とも言えない不快感を与える名シーンです。

 

さて、

 

どうですか?

 

この文章を読んで、否定だと答えた人はいないでしょうか?

 

「狂気」「殺戮」「不快感」という言葉があるので、否定だと思うのは読み手の自由です。でも、設問は「あなたが」ではなく、「筆者が」そのシーンを肯定しているか否かを聞いています。

 

従って、最後に「名シーンです」と書いてある以上、筆者は「肯定」しているのです。

 

ここがよくある、受験勉強は役に立たないと言われる点の大きな誤解かと思います。

(もちろん「思った」のは「僕」です)

 

作者が書いた文章を自ら解いてみたら、まるで違う解答になった、だからおかしい。

 

まるで、カラオケの採点システムに本人が歌唱して文句を言っているような感じですが、感想文と入試問題で解答するのは根本的に違います。

 

次の文章を読んで(あなたの)感想を書きなさい

 

 

次の文章を読んで設問に答えなさい

 

とでは、全く求められているものが違うのだということが分からなかった頃、僕は入試の現代文が苦痛で仕方なかった。

 

とくにマークシートの選択肢に自分が「思った」ことがないので選べない。そして、記述式で解答しても全然点をもらえないのはなぜかが分からず、悶々と悩んで過ごした試験時間は忘れられません。

 

学校の国語の授業は成績がいいのに、全国模試だと点が取れない。

 

でも、実は学校の試験も今から考えると先生が正しいとする答えを暗記し、それを自分の意見のように錯覚して答えていただけのように思います。

 

さらに授業では、先生に感想を求められて答えていることがさらに拍車をかけて、いわゆる客観的に文章を読むということが分からなかった。

 

さきほどの問題は問題である以上、採点基準を作らないといけません。

 

でも、問題を読んで「あなたが」どう思ったかには点のつけようがありません。

 

単に肯定か否定かという両極端で終わるものというのも決めつけすぎですし、何で限定されなければいけないのか、果てはなぜ答えなければいけないのか、ということにもなりかねません。

 

読書をしていて、いちいち考えるなんてことはしません。いや、している人はそれでもいいのですが、その意見に採点する人はいません。

 

なぜならそこに採点基準など必要がないからです。基準は人と話した時に自分の中に生まれます。

 

しかし、選抜試験である入試には基準がなければ採点できません。

 

1+1=2という問題に、りんご1個とみかん1個は足せないよねと思うのは自由です。でも、問題文には果物の種類までは書いていない。あくまで数の概念としての計算を試しているだけです。

 

仮にりんごに限定しても腐ったりんごとそうでないりんごをりんご2個として数えるかどうかは「食べられるか否か」という条件を付すかどうかで変わります。

 

そこにあるのは論理。

 

そしてそれに支えられた文章。

 

りんご2個あげるよと言われて、腐ったりんご2個だったら、その人とはもう付き合わないでしょう。

 

共通の土台があって初めて理解できる状況で採点するのが入試問題です。

 

解法がないところで大勢の人を採点することはできません。もししたら、それは採点者の主観でしかなく、不正と言われます。

 

入試問題の特性が理解できて読むならこちらの本は楽しく読めます。

 

国語入試問題必勝法 (講談社文庫)

国語入試問題必勝法 (講談社文庫)

 あくまで設問を作る際のパターンであって、本来の読解力とは別ですが、これはパロディであり、そういうクイズ的な一面もあると。

 

ところで僕が出口先生に教わったのは、文章を恣意的に読まない訓練でした。

 

自分の書いた文章が自分の伝えたい通りに書かれているか、についてはブログを読み返して修正する度に悩みます。

 

ザッと勢いに任せて書いている時は、何も違和感を感じなかった文章が後から読むと意味のない接続詞で結ばれていたりします。

 

「もちろん」とは何に対してもちろんなのか。多用しがちな「やっぱり」も同様。その時書いた自分の頭の中には何か前提となる考えがあって、自分だけでなくみんなもそう思っているはずという思い込みから自然に出やすい言葉ですが、それは果たしてそうだろうかと考えてみる必要があります。

 

理由も書かずに「〜である」と断定されても、人には伝わりません。

 

では、最後にもう一問。

 

(問題)つぎの文章を読んでカッコ内に言葉を埋めなさい。

 

「そこの角にたばこ屋さんがあるやん。でな、そこを右にガーと曲がるねん。そしたら大通りに出るから、黄色いなんかの看板が見えるねん。それを左にバーと行ったら、行列が見えるわ。最近テレビで取り上げられて人気のラーメン屋らしいで。とんこつスープがあっさりしてておいしいらしいわ、(    )」

 

 

正解は「知らんけど」。

関西人の口癖だから。 

 

 知らんけど。

 

 

今日は今日と読む?

時々、メンタリストのDaigoさんの動画から教わった電子書籍音声化を歩きながら利用しています。

 

これは、iphoneの一般設定からアクセシビリティのボイスオーバー機能をONにして、画面の状況を音声で読み上げてくれる機能を使い、電子書籍の文章を読み上げさせるというものです。

 

メールを読み上げたりもできます。

 

しかし、この機能は便利ではありますが、日本語の読み方の難しさも実感します。

 

まずは人名。山内さんをサンナイさんと言われた時は、文字を見るまで何のことか分かりませんでした。

 

慣れてくるとそれも楽しめますが。

 

後は、一日を「いちにち」と読まず、「ついたち」と読みます。

 

そう、文脈で判断はできないんですね。

 

そして、タイトルの今日。

 

「きょう」と読まずに「こんにち」と読む。なぜあえてそっちを?

 

そんな仰々しい小説はあまりないぞ。

 

「今日は寒い」を「コンニチハサムイ」と機械音声で読むのは寒さが増します。

 

ある程度文節で判断すれば分かりそうなものだけど、きっと前からそのまま単語区切りで読む機能なのだろう。

 

「今日において」は「きょう」とは読まないだろうに。

 

挨拶はどうなるのだ。

 

ひらがなならいい。

 

「こんにちは」だ。

 

しかし、「今日は」と漢字まじりに書いて「キョウハ」と読み上げれば、

 

昭和の名曲「今日は赤ちゃん」は

 

まるで一日(ついたち←オイ)限定ではないか。

 

と思って、検索したら、 

こんにちは赤ちゃん

こんにちは赤ちゃん

 

 

ひらがなだった。

 

というか、ここまでの文章をちゃんと読んでいる人なら、お前が使っている音声機能では「今日」は「こんにち」と読み上げるのではなかったか、というツッコミもあろう。

 

書き手にだまされてはいけない。

 

全ては戯言である。

 

虚言ではない。

 

が、

 

まぁどちらでも強ち間違っていない。

 

「あながち」である。

 

これをどう読み上げるだろう、などと違う興味が湧きだすともうストーリーが頭に入って来ない。

 

画面を見ながら、次の文字はどう読むのかとドキドキする。

 

そもそも画面を見なくても電子書籍という本が読める(聞ける)から使っているのに、文字通りの本末転倒である。

 

「健やか」を「ケンやか」と言われると、悲しい事情で離れ離れになった親子が涙の再会シーンで、

 

「賢也か?賢也なのかい?」

「か、かあさん」

 

みたいな全く別のストーリーに持ってかれそうになります。

 

はい、嘘です。

 

虚言です。

 

すいません。

 

スイマセンデシタ(棒読み)

 

 

school of fish は魚の学校か?

school of fish を訳す場合、「魚の学校」と訳してしまいたくなるのは分かるけど、そのままにしてしまう人はきっと辞書を引かない人だろう。

 

まだ「めだかの学校」と訳す人の方が、「雪がとけると春になる」と答えるような、ある種の感性を感じる。昭和歌謡のようなベタさはあるが。

 

ここで、fishが複数形にならないのはお約束。

 

何かのお約束ごとに疑問を持ったら参照する本 

 

英文法解説

英文法解説

 

 

によれば、単複同形の名詞には、sheep(羊),carp(鯉),trout(マス),deer(鹿)という例が載っています。

 

さて、魚が学校に通うのだろうか?と考えれば辞書の出番。

 

そこで、schoolを引いてみても、学校、授業、(大学の)学部、学派などという訳語がずらずらと並び、どうもしっくり来ません。

 

でも、ここで「学校」以外にもこんなに訳があるんだと感心したり、ちょっと辞書を引いてみようかなと思った人ならきっとこれから書く話にも興味を持ってくれるだろう。

 

今、この訳語から学校関係のイメージを持つだけでも、今後schoolに対してのアンテナが張られることになる。

 

時間的制約のある受験勉強において一語一訳の単語集に頼るのは仕方ないし、頻出単語の第一義を始めの取り掛かりとすることは誰しも経験があると思いますが、ある程度の勉強が進めば、どうやらそれでは済みそうにないという事も分かってきます。

 

そして、いつも誰かが教えてくれるわけでもありません。

 

この短いフレーズには文脈というものは存在しない。

 

そして、これが造語でないとするなら、ここは辞書の出番である。そうして根気よく説明を見ていくと、「(魚などの)群れ」という説明が現れる。

 

そこで、これを単に知識の問題だと片付けてしまう人とは話が合わないだろう。たまたま出合った未知の単語やフレーズは、これから先も必ず訪れる。これはもちろん英語だけの話をしているわけではない。

 

言葉というものは、どんどん増殖し、消失していく。そして、記憶できる量は限られている。そんな時に頼りになるのが辞書やネットになるだろう。

 

でも、そこからまた今のような話になる。

 

まずは調べるか調べないか。

 

調べたとして、単に知識の記憶とするか、何かを考えるか。

 

僕がこのフレーズに出合った時、「群れ」というものをイメージした。そして、学校も「群れ」だし、授業も「群れ」だし、学部も学派も流派も「群れ」だと思った。

 

元々の語源が正しいとか正しくないとかの話ではなく、「学校関係の群れ」に使う言葉だと認識して、以後そのイメージは忘れない。

 

日本語のダジャレと英語の意味をむりやり語呂合わせで結びつけるような記憶術よりもよほど使えるし、実際忘れにくいのは本来の語源からそう遠くない部分を探ろうとした結果だと思う。

 

以前にも書いたように、言葉とは先に意味があったのではなくて、あるコトやモノをそう呼ぼうと思った瞬間に生まれたのであり、その言葉がシンプルであればあるほど、使いやすいのでいろんな意味に分かれたのだと僕は考えている。

 

もしschoolが60文字くらいのアルファベットの組み合わせなら、使用頻度は低く、使用されたとしてもそれはおそらく1つの訳しか与えられないような専門用語になっていただろう。

 

頭を使わない作業ほど記憶に残りにくいものはない。短期記憶、たとえば意味のない数字の羅列は繰り返し暗記しないと持続は難しい。

 

電話番号や暗唱番号、パスワードは必要だから覚えているけれど、暗記量には限界がある。

 

頭を使わない例として、

 

新装版 富田の【英語長文問題】解法のルール144(上)

新装版 富田の【英語長文問題】解法のルール144(上)

 

 

 から引用させて頂く。

 

He has made five mistakes in as many lines.をどう訳すか。少し考えてみてください。

 

本の中では比較級の説明として出されているので、多少これから書くことと趣旨は異なるのだけど、それはさておき。

 

まず、lineについて。

 

これはいわゆる多義語である。だから呪文のように意味を羅列して覚える人は多いだろう。もちろん僕も初めて勉強した時はそうだった。

 

ただ、言葉のイメージをとらえようと思うようになってそれは変わった。

 

一応、この言葉の意味を羅列すれば、線、電話線、列、ひも、行、方針、方面、路線などなどである。

 

でも、僕のイメージは一本のラインだ。

 

何もないところに一本線があるような、そんなイメージ。あとは文章に合わせて訳出するだけ。お似合いの日本語を探してあげる作業。

 

電話線は線だし、行列は遠目に見れば線だし、ひもも線だし、文字が連なった行も遠目には線だし、会社の方針もある方向に向けての線だし、方面も路線も線だ。

 

で、例文に戻れば、これは何かのラインで間違いをおかしたということで、前後の文章が無いので特定しづらいけれど、まぁ「行」である。

 

ちなみにこのブログの流れはすでに学校という伏線?を張っているので、彼は学生としましょう。

 

なんだその誘導は?ーというのはここでは問題ではない。

 

ここまでをヒントに訳して欲しいだけだ。

 

「彼は多くの行で5つの間違いをした」と訳した人がいたならば、残念ながら不正解だ。

 

でも、それが間違いだと知って辞書や文法書を引こうと思える人には救いがあると思う。そうではなくて、as many は「(それと)同数」という意味でしょ、それくらい知ってるよという人ほどいつかどこかで言葉のしっぺ返しがくるような気がしてならない。

 

熟語やフレーズを知識で知っているという人は、ググって済ます人に似ていると思う。頭を使わずに調べるのは楽だ。調べるだけまだましかもしれない。

 

けれど、自分の必要な知識を得てそこから大して深入りせずに立ち去ることは、危険だと思う。

 

そんなベタなことを今更とは思うけど、今は言葉に対するアンテナの強度ということに限定してあえて言いたい。

 

日本語で先ほどの誤訳を考えてみよう。

 

多くの行で彼は5回ミスをするというのは変ではないだろうか?

 

なぜ、彼はそんなに間違うのかと聞いているのではない。何かの文章を書いていて、誤字が多いとしよう。

 

でも、それがなぜ5回と特定されるのか。

 

今ここに彼が書いた文字の行が30行あるとして、全部の行で彼は5回ずつミスをするのは言い過ぎだとしても、2行や3行置きに5回ミスするとは確信犯であって、普通はありえない。

 

もし、そう訳した人は、では日本語でそのような表現をあなたはするだろうか?と問いたい。もしするのなら、ちょっと日本語そのものの文章力を疑った方がいいとさえ思う。

 

きっとどこかで誰かを誤解させるような文章を書いてしまうのではないだろうか。あるいは僕のこのブログからミスだけを探すようなさもしい人間に成り果てていないだろうか。

 

確かに例文くさい例文ではある。正しい訳は「彼は5行で5つの間違いをした」だ。

でも、「1行に5回間違った」と訳す人の方が英語力はともかく日本語としてはまだましだと思う。少なくとも知識だけで機械的に訳している人よりは文意について配慮がある。

 

 同じく富田先生の本から引用させて頂こう。ちなみにこれは本文そのままの説明だ。

富田の英文読解100の原則 上 (新装版)

富田の英文読解100の原則 上 (新装版)

 

 

「彼は財布を盗まれた」という文章を和訳して欲しい。

 

難しい単語も無い、受動態にすることも分かる。

 

ではシンキングタイムスタート。

 

考えてる?

 

頭使いましょう。

 

考えた?

 

きっと何かが残りますって。

 

では、

 

これを訳して、

 

He was stolen his purse.としてしまう人が(僕を含めて)多い。

 

それぞれの単語を英語に置き換えて、中途半端な文法知識のルールをあてはめる。

この問題は動詞には文型のパターンがあることの大切さを教えてくれる。

 

富田先生の読解ルールによれば(というよりどの文法書にもある普遍の法則をそう言ってるだけでテクニックではないことはもちろん自明として使っておられます)

 

「受動態は元の(能動態の)動詞の目的語を主語の位置に移しかえたものである」

 

英語から日本語に訳す時、受動態を能動態に戻して説明されたことは何度もあるはずだ。だから、和訳する時もその逆の手順で正誤を確かめなければならない。

 

受動態の元の文中の動詞は他動詞である。

 

他動詞とは何だっけか?

 

他を求める動作の詞(ことば)である。自動詞は他を求めず自立しているわけです。典型的な動詞で言えば「走る」。主語が走っていて、他のもの(目的となる語)は必要ではありません。

 

例文では、彼は財布を盗まれた、つまり「彼の財布を」盗まれたであり、「〜を」と他を求めている動詞が「盗む」です。

 

もちろんstealには「盗みをする」という自動詞の意味もあるので、動詞の訳で悩んだら訳語を探すのではなく、その動詞の同じ文型の例文を探して、そこから訳語を選ぶのが手順です。

 

決して、名詞のように訳語の羅列を見て日本語に合う訳をあてはめるのではありません。そもそも文中の動詞がどれであるかを認識できずに文章は読めません。ましてや外国語は。そして、その意味は今の手順以外では特定できません。

 

ここで余談ですが(というより全ては余談ではないかというのは愚問の極み)、小学校の国語の授業で初めて動詞を教えてもらった時に、

 

先生が動詞の説明をした後、「ーう」で終わる単語ですよ。一人ずつ言ってみてと言われ、「走る」「作る」「たたく」と順番に続き、ある女の子が「こんぶ」と言って爆笑になったことを思い出しました。

 

動作を表してないがな。

 

さて、話を戻しますと、

 

主語 steal 目的語.       という能動態の文章は、受動態になると、

 

目的語 be stolen by 主語.

 

の位置へと移り、ちょっと説明くさくなりますが、

 

主語(=元目的語) be stolen by   目的語(=元主語).

 

になるわけで、だから

 

His purse was stolen by him. 

 

でしょうか?

 

彼の財布は彼によって盗まれた?

 

最初に誤訳した英文は

 

He was stolen his purse. でしたから、「彼の財布を」という目的語が主語の位置に行き、「彼」という主語を目的語の位置に戻すとそうなります。自作自演でしょうか。

 

「彼は財布を盗まれた」という日本語を誰かに日本語で伝える文章を書く時に自作自演という意味でそう書いたなら、やはりそれは通じないでしょう。

 

正しくは、

 

His purse was stolen.

 

これが日本語と英語の文法の違いなのです。発想の違いと言ってもいいでしょう。

 

頭を使わずに訳すおかしさが伝わったでしょうか。

 

僕はアンダーラインが初めから引かれた本が苦手です。あるいは太字が強調された本も。

 

英文読解でも始めからスラッシュがつけられていたり、直読直解として日本語ですでに意味のかたまりが載っているような本は使いません。

 

理由は一つ、自分でしていないから。

 

どこが大事で、何を強調するかは自分で決めないと頭に入りません。たとえ、それが間違った箇所であったとしても、いつかその間違いを修正した時、それは必ず自分の中に残ります。

 

よく問題を解くより問題を作る方が何倍も勉強になると言いますが、誰かの作った問題をただ紹介するよりも問題をオリジナルで作るまではいかなくても、類題を作るだけでも相当頭に残ります。

 

別に本を読む時、線を引こうと言ってるのではなくて、引こうと思うだけでも文章から何かが残ります。要は自発的に学ぶかどうかですね。

 

魚の学校から卒業できたら、学校に頼らなくても学べるかもしれません。

 

うわっ。

 

いや、ウオッか。ギョギョッ!

生きているだけで、愛

というわけで、前回原作を読んだ僕は、映画を観たのであった。

 

で、感想はと言えば、ほぼ原作小説に忠実。読んだ人なら伝わると思いますが、屋上のシーンもまんまです。

 

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

 

 

小説は怒涛のように迫り来るリズミカルな文章で一気に読ませるのですが、映画では、原作にはない菅田将暉演じる津奈木(つなき)くんの仕事シーンも描かれているので、趣里さん演じる寧子(やすこ)目線の小説より彼の人となりが分かりやすかったです。

 

深読みかもしれませんが、小説では二人が同棲しているマンションの部屋は、ドアで仕切られているものの、映画ではアコーディオンカーテンで仕切られており、いつでも簡単に開けられるのに決して互いに開けないところが、二人の距離感を象徴しているように思えました。

 

また原作では一人称で内面が描かれる部分を姉とのLINEで表現する辺りは見せ方として感心しました。

 

元カノで陰湿な嫌がらせをする仲里依紗さんは、もっとはじけても良かったと思いますが、この映画は何よりも趣里さんの一見笑っちゃうくらい狂った女、でもなんかほっとけないキャラが全編を覆っていて、金八ファイナルで出てた親の七光りに思えた女の子が見事に脱皮して女優になったんだーと圧倒されました。

 

また、普段は破天荒なキャラを演じることが多い菅田将暉も今回は内面がよく分からない地味な役を演じています。

 

movies.yahoo.co.jp

 

でも、そこはさすが日本アカデミー俳優。彼が時に見せる表情はやっぱりスゴイ。目は口ほどに物を言うとはいいますが、それを演技で示せる役者はそうはいません。

 

トドメの接吻 Blu-ray BOX

トドメの接吻 Blu-ray BOX

 

 

においても彼は地味な脇キャラでしたが、存在感がすごくて、出てくるだけで惹きつけるものがありました。

 

もちろん、それ以外にもたくさんのドラマや映画に出ていますが、ドラマ俳優と映画俳優に分けるとすれば、彼は間違いなく後者。スクリーンの大きさに負けない、存在感が際立つ稀有な若手俳優だと思います。

 

他に目に憂いがある若手俳優と言えば、トドメの接吻にも出ていた、まるでジョジョのキャラから抜け出したような

 

 

新田真剣佑もかなりのものでしたが、トドメでは菅田将暉の方が印象がすごかったです。ちなみに主演は山崎賢人ですけど、門脇麦ちゃんが健気で泣かせますね。

 

そう言えば、菅田くんは帝一でもぴったりハマってましたね。

 

帝一の國

帝一の國

 

 

まぁ、それはともかく、この映画は趣里さんの怪演が全てです。案外、男女逆にしてもこの二人ならいけるかもしれない。

 

過眠、メンヘル。バイトを始めればますますひどい過眠症に苦悩する25歳の女性。

 

自分でもどうしようもなくて、彼氏に負のエネルギーをぶつけるのですが、まともに受けてはくれないまま送る惰性のような同棲生活。

 

でも本当はどうにかして、この自堕落な居候生活から抜け出したいと苦悶する寧子。

 

物語が進むにつれて、二人は寄り添います。

 

寄り添う二人は、なるべくしてなった二人なのかもしれません。

 

誰かに弱さを見せられるということはとても幸せなことなのに、弱さを見せたいと思えるには見る側にも受け止めるだけの精神状態が無いと難しい。

 

寧子が津奈木に分かってもらいたいのなら、寧子も津奈木のことを分かってあげないと始まらない。でも、もし寧子がそうしようと思っても、今度は津奈木が寧子に弱さを見せないと始まらないわけで。

 

では、本当に互いに分かりあえるのかと言えば、他人は他人。自分は自分でしかなく。

 

その辺りのもどかしさは原作まんまのセリフがうまく表現しているのですが、それはネタバレになるので伏せます。

 

ところで原作ありきの映画は、どっちを先にするかが問題になります。

 

昔の角川映画のキャッチコピー、「読んでから見るか見てから読むか」ですが。

 

僕の感想としては、先に映像を見てから、分からない内面の部分を小説で補足する方が楽しめるように思いました。

 

映画にもいろいろありますが、僕が好きなのは人生のある一面を切り取ったような作品です。どんでん返し連続のストーリーもいいですけど、何気ない日常が見方によって別のものに見えるような映画が好きです。

 

この映画を観終わった後は、きっと誰かに優しくできるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

小学校低学年の作文を読む

 

手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)

手ぶくろを買いに (日本の童話名作選)

 

 

 

手袋を買いに

手袋を買いに

 

 

今ではすっかり昔の話になってしまったが、どうやらこの名作童話を小学校低学年の自分が読んだらしいのである。

 

らしいというのは、今目の前に当時の自分が書いた作文があるからで、事実としては眼前にあるものの、記憶としてはもうすっかり抜け落ちているため、たぶんおそらく間違いなく筆跡鑑定をしてもそういう結論になるのだろうということである。

 

そこでどんなものかとここに引用というか転載?してみる。もちろんかなり恥ずかしい文章ではあるが、まぁもうほとんど別人のような気持ちなので、不思議な感覚で。誤字脱字もなるべくそのままに。

 

ちなみに( )内は今の自分からの補足である。改行という概念がないせいか、読みづらいため、適度に改行しています。

 

 

手ぶくろを買いに(を読んで)

 

寒い冬が、北方からきて、きつねの親子がやってきて、子どものきつねが外に出て、いたら、雪が一面にふっていて、子どものきつねはその雪がまぶしいほど反しゃして子ぎつねがその反しゃを受けたので、目になにかささった(と)思った。

 

子どものきつねは、また遊んでいて、雪の上にで遊んでいた。子ぎつねはなにもしらないで雪に上を歩いて、いったら、「ドタドタザッー」と(雪が)落ちてきたのでびっくしりした。それからだんだん手がつめたくなった。しもやけができて、つめたいだろうと思った。

 

母さんぎつねが、子ぎつねの手に息をふきかけた。あたたかい手で、つつんだ。母さんぎつねは、「もうすぐ、あたたかくなるよ。雪にさわるとすぐあたたかくなるもんだよ。」と言った。

 

暗い夜がきて、野原とかを、つつんだ。冬のさむい森(に)なにがいるのだろうと思う。雪がふってきてから子ぎつねは、寒いのによく雪の上をがんばって歩るくなぁと思った。

 

母さんぎつねは、子ぎつねのことを思って人間の手を出すんだよといったけど子ぎつねはなぜ人間の手を出さない(と)いけないかと思った。

(注:魔法のようなもので子狐の片手を人間の手にして、人間に怪しまれないようにその片手だけを戸の隙間から出して手袋を買いに町へ行かせるお話)

母ぎつね(は)どれだけおそろしさをし(っ)ているのだろうと思う。

 

でも子ぎつねの方はなにもしらないから、平気だけど、母さんぎつねは町に行くときの後ろすがたを見てだいぶ心配しただろう。

 

でもそんなことをしらない子ぎつねは平気で歩るく。町には店のかん板に電とうがともっていて、子ぎつね(は)それを見ながら一人でこわくないのかなぁーと思った。

 

そして、やっと、見つかったときうれしか(っ)ただろう。その店の戸(を)「トントン」とたたいたときの気持ち(は)どうだっただろう。たぶんぼくだったら人間だから平気だろう。(だって人間だもの)

 

子ぎつね(の)場合いはものすごくこわかっただろうと思った。そして戸が開くと、光が長くのびたので、子ぎつね(は)こうふんして、(注:実際は光にめんくらって間違えた)反たいの手をだしたと思った。

 

その時出した気持ちはどうかなぁーと思いました。手ぶくろをはじめてさわったときは、どういう気持ちかなぁーと思った。

 

道を歩るくと人間の声が聞こえる。子ぎつねはそのとききっと早くほら穴に入ってぬくぬくとした、母さんぎつねのおなかの下でねたいと思っただろう。

 

そして「シーン」とした所でねたいと思っただろう。でも母さんぎつね(の)方(が)ずっと心配しただろう。子ぎつねも早く走ってほらあなの方へまっしぐらに走りたいと思っただろう。

 

そしてほらあなに帰ってから今までのことを話すと、母さんぎつねはびっくりして人間のこと(を)考えていたらやっぱり人間は本当にいいのかなぁーと思っただろう。

 

人間もそのころはきつねの親子のこと(を)思っているだろう。たぶんきつねのように考えたってきつねってい(い)動物だなぁーと思っただろう。

 

今ごろはきつねの親子がぐっすりねむ(っ)ているだろうと思った。人間の母さんのように美しいねむりうた(を)聞かせただろう。

 

そして子ぎつねはその美しい声を聞(き)ねむっただろう。たぶんやすらかにねむっていただろうと思った。

 

→なるほど。ほとんど物語のナレーションである。ところどころで自分の感想を入れつつ、まぁそのまま本を写していった感ありありの作文であった。盗作なのか。意味の通じない文章があるのはご愛嬌。

 

他の作文も女子がどう言ったから、こう言い返したとか、リレーで誰を抜いた、抜かれたとかほとんど実況である。これが自分なのかと思っただろう。助詞が抜けているなぁーと思った。そして大して今も変わっていないなぁーと思った。

 

そして、今日はもう一冊本を紹介しようと思っただろう。

 

 

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

生きてるだけで、愛。 (新潮文庫)

 

 

生きているだけで愛を読んで

 

この本の主人公は、女の人です。過眠、メンヘル、二十五歳という設定です。僕はつい最近まで過眠という病気があることを知りませんでした。

 

メンヘルという言葉もほとんど知りませんでした。だから大変だなぁーと思いました。でも、女の人にはやさしい彼氏がいて、部屋にひきこもっている彼女をそっとしてくれています。

 

でも彼女(は)そっとされることさえ、いらいらしていて、冷たい言葉をいったりして僕はひどいなぁーと思いました。でも大人のことだからよくは分からないなぁーとも思いました。

 

お父さんとお母さんもしょっちゅうけんかするけど、別れると言いながら別れないのでそういうもんなのかなぁーと思いました。

 

そして彼女はめちゃくちゃなことばかりするのに彼氏は何も言わなくてえらいなぁーと思いました。彼氏(は)どれだけ人間のおそろしさをし(っ)ているのだろうと思う。

 

でも彼女も反せいしているみたいなので許してあげてほしいなぁーと思った。

 

彼氏の元の彼女が途中から出てきて、いやがらせをするところはこわいなぁーと思ったけど、彼氏は怖くないみたいでした。(だって元カレだもの)

 

そして元の彼女が無理やりに主人公の女の人(を)バイトさせると、その店の人たちはみんなやさしい人ばかりで、みんな仲がいいからここにいたらいいのにと思っただろう。

 

最後のほうはわりととつぜん話が切れるのはびっくりしたけど、人間ってふくざつだなぁーと思いました。もっと相手のことを考えてあげたら、もっとうまくいくかもしれないけど、あんがいこの二人はこれでいいのかもしれないと思った。

 

映画もやっているみたいだけど、機会があればみたいなぁーと思っただろう。

 

 何かを抱えて生きていく夫婦の話↓

きいろいゾウ

きいろいゾウ

 
きいろいゾウ (小学館文庫)

きいろいゾウ (小学館文庫)