今日の電車
5両目
うるさい、というのとは違う。
うざい、のだと思う。
端的に言えば、学生カップルがいちゃついているのだ。
それも微妙に気になるようなイチャつき方で、男性が女性の耳に何やらささやきながら、くすくす笑うのだ。
そうしたら、女性が男性にウィスパーボイスを投げ返し、また男性が目を見つめながらくすくすと笑うのだ。
断言しよう、絶対に面白くない話だ!
そして口臭がくさい。
くさいに違いない。
塩辛とキムチが発酵したような生ゴミの腐臭を顔に吹きかけ合っているに違いないのだ。
時刻はまもなく0時になろうとしている。
もちろん終電だ。
電車の座席は埋まっている。
私が降りる駅は次ではあるものの、まだ長い。次の停車までが長いのだ。
つまり逃げ場は無い。
わざわざ別の車両に移るのもくたびれきったオヤジには辛い。
我慢するしかないのだ。
ふいに女性の声がもれる。「このまま時が停まればいいのにね」
冗談は顔だけにして欲しい。
一刻も早く帰りたいこの時が永遠に続くのなら私はこの世から消えた方がまだいい。
汗ばんだシャツが背広の中でぴったりと肌にはりつき、特有のガスが充満しているはずだ。額にこびりついた髪はうねり、睡魔が襲ってくるが乗り過ごすと高額のタクシー代がかかってしまうため、重いまぶたをむりやり持ち上げながら、スマホの検索画面に表れるどうでもいい情報を見る。しかし、どうやらそれも限界だ。
カップルは互いに慰め合っているようだ。
こんな時、私は一人、自分の部屋にこもる。
さて、今日は何を思い出そうか。
学生時代か。
小学生。
そう、あの頃の事を思い出そう。
これはまだ私が小学校に入ったばかりの話である。
ある日僕は一匹の子犬と出会った。
人目のつかない広い広い野原で。
どうやら雑種のようである。
特にする事のない僕は、ポケットの中にあったチョコレートを地面に落とした。
子犬はよほどお腹が空いていたと見えて、ものすごい勢いでむしゃぶりついた。
板状のチョコを喉の奥に押し込み、歯ぐきが見えるくらいに何度も舌なめずりをした。
それから何回かその場所で決まった時間におやつを分けるようになった。もちろん親には内緒で。
初めこそ従順で無垢な姿に感動を覚えたものの、繰り返すうちになんだかひどくつまらない作業に思えてきた。
そこである日、僕は激辛のお菓子を与えてみた。子犬は少しも疑わずいつものようにそばにすり寄って来て、それを食べた。
と、げえげえと物凄い形相で口の中の異物を吐き出した。
僕はその姿に笑い転げた。
その日、子犬は逃げるように走り去ったが、次の日に行くとまたいつものように僕を待っていた。
一点の曇りもなく見つめる目は少しも僕を疑っていないようだ。
すっかりいたずら心にとりつかれてしまった僕は、その日も同じく激辛のお菓子を与え、もだえ苦しむ姿を見て楽しんだ。
次の日、子犬は現れなかった。
なんだつまらない。
僕は辺りの雑草を引き抜き、自分でも驚くほどの奇声を上げて、こみ上げる怒りを発散させた。
大地を踏みならし、地面に八つ当たりした。
突然、ものすごい痛みが走った。
見ると大きな釘が靴の裏を貫通している。
やっとの思いで引き抜き、脱ぐと真っ白な靴下に赤い染みが広がっていた。
僕は大声で泣いた。
しばらく泣きはらして落ち着いた頃、靴下を取り、足の裏を見るとさっきよりは幾分ましになっていたが、痛みは続いていた。
草むらに横たわり、雲の流れを見ていると自分の置かれている状況が滑稽で情けなく、誰も来るはずのない不安でいっぱいになった。
何かを感じる。
なでるようなそんな感覚を足に感じた。
見るとそこにあの子犬がいた。
子犬は僕の足の裏を舐めていた。
真っ赤な絵の具を丹念に拭き取るように懸命にその小さな舌で。
僕はわななきむせび泣いた。
そして初めて子犬に対してごめんなさいと思った。
停車駅のアナウンスが聞こえる。
相変わらず傷を舐め合うカップルに私は微笑を浮かべ席を立った。