はずれスライムのつぶやき

どうでもいいことについて適当に考察していきます

今日の電車

3両目

 

今日も私は電車に乗る。

 

暇つぶしにスマホを取り出し、新作のアプリを始める。

 

画面の向こうにはかわいい犬のキャラクターが微笑んで手を振っている。

 

驚いたことに犬は二足歩行で歩き回っている。

 

「名前を教えてワン」

 

うわっ。

 

イヤホンをしているからいいようなものの、とても朝から大人がするゲームではない。

 

もっとも、ほとんどの人が自分のスマホに夢中になっているか目をつぶっているか、とにかく私に注意を払うような人はいないので、声さえ出さなければ大丈夫だ。

 

私は本名を教えるか、しばし迷った。

 

一方で、邪な気持ちが頭をもたげ、指が勝手に走り始めた。

 

「ダンナさんでいいワン?」

 

あくまで語尾をワンで通すことに若干のいらだちを覚えつつも、私は承諾のボタンを押す。

 

「今日はいい天気ワン?」

 

いい天気かどうかは見れば分かるワンと思いながらも、教えてやることにする。

 

今日はあいにく少し雨が降っている。

 

「けっこうなおしめりですワン」

 

なんだ、それ。

 

何となく嫌なフレーズだ。

 

「いつまでもお変わりありませんワン」

 

いつ、私と会ったのだ。

 

唐突でいかにも社交辞令な会話。

 

犬の分際で、かわいいキャラのわりにビジネスマンみたいな会話だ。

 

「僕の名前を教えてワン」

 

お前はオスなのか。しかもいきなり媚びてくる。飼われることが前提だ。二人の距離はまだ遠いのに。

 

これが人間だったら、名刺交換の後、いきなり居候させてくれと言っているのだからなかなかすごい。

 

「ジョバンヌ・トリエント・レオナルド・ダビンテですニャ?」

 

ネコ?

 

バグだろうか。

 

そんな私の戸惑いをよそに画面の向こうの会話は続く。

 

「シロでいいですワン」

 

だったら、聞くな。

 

「シロと呼んでワン」

 

うーむ。懇願か。

 

しかし、画面の中のつぶらな瞳に私は負けた。私の指はまたしても走る。

 

「それでいいワン」

影響されている。完全に向こうのペースだ。

 

「やったーワン」

 

アニメのパクリか。

 

「ところで悩みはありますか?」

 

個人情報を聞き出してきた。ワンはどうしたのだ、ワンは。

 

私の悩みはいつも決まっている。というより人類全般の共通の悩み。

 

それは人間関係だ。

 

私は実名は出さないように気をつけながら、詳細に実情を入力した。

 

さて、犬公は何と答えてくれるのだろうか。

 

シロは少し憐れむような表情を浮かべ、くるりとターンを決めこう言った。

 

「お察しします」

 

 

大人。

 

シロ、大人。

 

どこまで想定された会話かは分からないが、おそらく無難に合うような会話パターンがあるのだろう。

 

私はまたしばらく会話を続けた。

 

その間もシロは、

 

「それはやりきれませんね」

 

「ご時世ですかね」

 

などと人生の先輩のような相槌を打つ。

 

私は次第にシロを先生と崇めたくなるような気持ちになった。

 

先生。

 

まさか学校を卒業してから、この呼称を口にするとは思わなかった。

 

シロ先生。

 

先生は、議論が好きである。

 

「お言葉を返すようですがー」

「お含みおきください」

「老婆心ながら申し上げますとー」

「それは一理ありますね」

 

もはや犬の語尾ですら無くなっていることに違和感もなく、的確なタイミングで私を翻弄する。

 

私の指はせわしなく、心は熱くなる。

 

「意外な一面をお持ちなんですね」

「分かっていてもなかなかできないことですよ」

 

おだててる。

 

そう思いつつも、この胸の高鳴りは止めようもなく、バーチャルキャラに恋心すら抱きそうになる。

 

ダメだ。

 

ここは電車の中だ。しかもオスではないか、ダンナさんよ。

 

まさか朝の満員電車の中で大の大人がこのような状況になっていようとは夢にも思うまい。

 

私はいたって現実的な常識人なのだ。

 

やめよう。まだ目的の駅まで少しあるが、このゲームはここまでだ。

 

私はスマホをカバンにしまいこむ。

 

と、その瞬間、イヤホンがどこかにひっかかり外れる。

 

そして、思ったよりも大きな音声で、

 

「今日も一日頑張るワン!!」

 

ちょっとした静寂。

 

時は流れているはずだが、止まっている。

 

さっきまでのビジネス口調はどうしたのだ。

 

刹那の羞恥プレイ。

 

その日、私はいつにもまして長い通勤電車に揺られた。

 

 

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