はずれスライムのつぶやき

どうでもいいことについて適当に考察していきます

lastの感覚

ときどき、出会った言葉にふわふわと落ち着かないことがある。

 

心のどこかが安定しないような感覚。でも、僕はそういう感覚になることが嫌いではない。

 

たとえばそれがどういうことかを具体的に説明しよう。

 

ちなみにconcreteに「具体的な」という意味があることを知った時は意外な感じがした。

 

どうしても建物に使われるようなコンクリートの方が先に頭に浮かぶ。「抽象的な」という反意語はabstractだが、こちらは特に頭に浮かぶものが無いので受け入れられる。

 

このような場合、僕は意味を頭の中に定着させるためにイメージで捉えようとする。

 

頭の中のもやもやとした抽象的なものがコンクリートのように固まることで具体化するというイメージで言葉の引き出しにしまってある。

 

これは単に日本語としての置換訳を自分の中にしまう行為で、それも未知の言葉に出会った時の楽しみの一つだが、今回はまた別の話で。

 

具体例としては、

 

「気がおけない仲」

 

これは、うちとけあうくらい仲の良い状態なのだが、どうも自分の気が相手に預けられないという風にイメージしてしまい、全く逆の意味に思えてしまう。そういう気持ちを瞬時に否定して、裏返した意味なのだと認識する時の気持ちのゆらぎが、ちょっと自分の中で面白い感覚なのだ。

 

フィクションと言われて、一瞬分からなくなると、ノンフィクション=虚構ではない、だからフィクションは架空のことだと認識し直すような感じ。

 

否定語がつくものは、意味を反転させないと自信を持って使えないような感覚。

 

ぞっとしない話は、怖くない話ではなく、むしろぞっとする話なのだが、ヤバイ話がいい意味なのか悪い意味なのか分からないのに似て、ぞっとしない。

 

さて、ラストに挙げるのはlastである。

 

物語のラストと言えば、最後のオチの部分だが、last yearと言えば昨年である。

 

last night はもちろん「昨日の夜」であり、last weekは「先週」である。

 

lastにはこのように「この前の」とか「最近の」という意味もある。

 

ここで僕は思うのだ。

 

なぜ「最後」が「この前の」や「最新の」という意味になるのだろうか、と。

 

どのような言葉も、意味が先にあって言葉ができたのではないと思う。

 

石を石と言おうと決めた人がいて、それをまた周りの人が石と呼ぼうという共有認識が定着して、common「共通の」sense が常識となる。

 

そして、その言葉を使っていくうちに意味が枝分かれし複数の意味を持つ。

 

そういう考えで僕は言葉を捉えているので、lastに出会った時もこの浮遊感をどう落ち着かそうかと考えた。

 

今ここに行列があったとしよう。

 

大人気のラーメン店に自分が並んでいる。

 

しかも今並んだばかりで、列の一番最後が自分である。

 

ところが、列はどんどん膨らんでいく。

 

自分の後ろに並んだ人から見れば、すでに自分は最後ではない。

 

真後ろに並んだ人からすれば、自分は前の人だ。

 

つまり、立ち位置で変わる順番。

 

では、昨夜というのはどういう状態かと言えば、今日から見た昨日の夜である。

 

今日の夜は時系列に見れば、「最後の」方である。

 

それが、一晩明けたところから見れば、「この前の」に変わる。

 

これが僕の中のlastの枝分かれした意味を捉えるイメージだ。

 

 the latest news は最新のニュースと訳される。

 

lastが本来lateの最上級であったということをふまえると、これもある時点では「最後の」ものであったニュースがそれより後のニュースが無かった場合には、順番的に最後のものが「最新の」ものであるという不思議な感覚に襲われるのは僕だけだろうか。

 

仮に人類滅亡の危機で放送されるニュースなら、これは「最後のニュース」と訳されるのだろう。

 

ピタゴラスイッチで有名な佐藤雅彦さんの

 

毎月新聞 (中公文庫)

毎月新聞 (中公文庫)

 

 

という新聞の形態をとった面白エッセイの中の「日常のクラクラ構造」にこんな話が書かれている。

 

ゴミ袋がいっぱいになったから新しいゴミ袋に取り替えようとすると、たまたま最後の一枚であった。その新品のゴミ袋を、包んでいた透明の袋から取り出し、手元に残っている使いようのなくなった透明袋を今セットしたゴミ袋に捨てた、その瞬間のクラクラした変な感覚。

 

古い財布から新しく買い換えた財布にお金を移し替える瞬間のめまいにも似た気持ち。

 

内側が外側に反転するようなメビウスの輪をたどるような感覚。

 

そんな感覚に僕がなる時、それは最後ではなく、常に最新でワクワクする出会いなのです。