はずれスライムのつぶやき

どうでもいいことについて適当に考察していきます

やっぱり本が好き

というタイトルを見て
 

 

やっぱり猫が好き 6枚BOX(第1巻?第6巻) [DVD]

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を思い出したあなたなら、きっと僕と話が合うか、あるいは合わないか。
 
 
やっぱりとにかく絶対ぶっちゃけされどもいずくんぞしかれどもさりとて本が好きなのである。
 
物理的なスペースの都合もあり、電子書籍を利用するうちに始めの頃に比べれば抵抗は少なくなったものの、
 
やはり紙の本というのは僕にとっては大変魅力的であり、大型書店にあるような自分の背丈を優に超える本棚の間をあたかもXファイルのオープニング映像のように歩いているだけで幸せな気持ちになるのだから大したものである。
 
褒めた。
 
褒めてみた。
 
学生時代から今のようなジジイになっても本屋に足を運ぶ頻度は変わらない。
 
平均すれば三日に一度。何らかの事情で一週間も行かなかったら、きっと精神が錯乱してしまうに違いない。
 
本屋というのは僕の場合、古本屋は含まれない。少なくとも古本屋を同じ文脈で使ったりはしない。
 
もちろん利用する事はあるけれども、誰かが所有権を譲渡した本は脱け殻のようであり、特に自分が気に入ってる本が格安コーナーに押しやられているのを見るのは耐え難い苦痛だ。
 
そこで、
 
もし僕を捕獲したいなら、お気に入りの本屋さんに罠を仕掛けておけば確実だ。
 
というか何ゆえに捕まえられなくてはならないのか。
 
接続詞からしておかしい。
 
よしんば捕まえたならエサは本がいい。
 
生活が保障され、本を読んで一生を過ごす。
 
ワタシハソウイウモノニナリタイ
 
もはや願望?
 
 
iPadの大画面の中で表紙がずらりと並んだ本棚サムネイルは、それはそれで脳内補完されて楽しいけれど、実態の無いデータの文字群はどこかよそよそしく、指の間からこぼれ落ちる砂のような一抹の寂寥感を覚えてしまう。
 
音楽やゲームがリスト表示された途端に質量を感じなくなるような感覚。
 
その点、本には当たり前だが重さがある。
 
積ん読とはよく言ったもので、積んでおくと読まないといけないようなプレッシャーを僕は感じる。
 
また不思議と棚や積んでいる位置で、タイトルが記憶に残っていて、ふとした時によし読んでみようと思ったりする。
 
まだ電子書籍が無かった頃、僕は最低でも二冊は本を鞄に忍ばせていないと落ち着かなかった。
 
その二冊をおおざっぱに分ければ、内容が重たい本と軽い本であり、それを気分に合わせて選択していた。
 
ところが、何十何百冊もスマホの中に持ち運べるようになると、それらは不思議にも心に残らなくなる。
 
あろうことか、興味を持った電子書籍をダウンロードしようとして、あーたね、それもう持ってますのよとデヴィ夫人並みの語気にさえ感じられる注意表示を見て、少なからず自己嫌悪に陥ったりするのだ。
 
お前が読みたいと思ったのはその程度の熱量だったのかと。古本屋が好きになれないのは、対価を作者に還元していない後ろめたさが付きまとうからだ。
 
本がデータ化され、パーセンテージで表示されるのにも違和感がある。
 
僕にとって本は質量を伴うものであり、文字に目を走らせ、ページをめくる行為こそが読書というものなのだ。
 
そういう風にして百年以上も生きてきたのだから、今さら画面をタップし、速読ソフトのように目で文字を撫でるのは読書とは言い難い。
 
同様に文字を書く行為も紙にペンで書く方が楽しく、キーボードに文字を入力していると変換している側から何かが逃げていってしまうような気持ちになる。
 
大した文才も無いのだから、仮に逃がしていたとしても大した魚でもないはずだが、錯覚できるのだから大したものである。
 
再び褒めて無駄な重複を重ねてみた。
 
このように重なる表現は気になり始め、無いはないとすべきか悩む。
 
読み方についても、「ちょうふく」か「じゅうふく」かで思考が一時停止する。
 
どっちだっけ?あるいはどっちでもいいんだっけ?かと辞書をめくる愉しみを変換候補の辞書機能にある簡潔で面白みのない説明が奪う。
 
けれども、楽に慣れる人間はそれ以上の労苦をしようとはしない。結果、新しい言葉に出会えるかもしれない辞書の散歩道を歩く機会は訪れない。
 
キータッチは明らかにアルファベットに有利にできていて、あの少ない文字の組み合わせは日本語には向かず、かなりの頻度で変換ミスや文字選択を迫られる作業は文章を作成する満足感を喪失させる。
 
デジタルでも紙に近いことやそれ以上に便利な編集機能があることは分かっていても、自分が書いた文字を読み返し、上から線で文字を消したり、言葉を足していると過去の自分と対峙して気分が高揚してくるのに、
 
デジタルのそれは素人編集者がにわか気取りで、プログラムミスを潰していく地味でつまらない作業に思えてならず、温度を感じない。
 
そこにいるのは澄ました表情の自分のクローンみたいなもので、対話にまでは到底いたらない。
 
始めてブログを書いた頃は、横書きに抵抗があったが、今は特に何も思わない。慣れというものだろう。
 
 
しかし、慣れないものは依然として存在し、それはこの先も変わることは無いだろうと確信している。
 
いでやこの世に生まれては、紙の本が今のような規模でなくてもいいから存在し、たとえ入場料が必要であっても通いたい。
 
精神が安らぐ場所は、本のある場所。
 
長生きの秘訣は?
 
と聞かれれば、「読書ですな」と言えるおじいちゃんになりたいものです。軽く書くつもりが1時間半以上もかかってしまった。
 
よくある問答で、人類が発明した最も偉大なものは?と聞かれたら、僕は迷わず「文字」と答えたい。