何気ない日常に彩りを
学生時代、徒然草が好きだった。
でも、ジジくさいと言われそうなので誰にも言わずにいた。
全訳本を買ってきて、そこに書かれている話をエッセイ感覚で全段読んだ。
吉田兼好という人は、いろんな話を書いていて、人生訓のようなものから、落語のような話までバラエティに富んでいて、文章は古いけど、昔の人も同じような事を考えるんだなとか、ちょっと変わった発想だなとか、枕草子と同じくらい気楽に読めた。
第二百三十六段「丹波に出雲といふ所あり」というのが教科書に載っていた話だ。
知らない人もいるだろうから、かいつまんで書くと、
神社の前にある獅子と狛犬の石像が背中合わせになっているので、ある人が、この置き方には何か深い意味があるに違いないと周りに物知り顔で語り、神官を呼んでどのようないわれがあるか聞いてみると、近所の子どもがいたずらしたのだと憤慨し、元の向きに直した
という笑い話。
しかし、これを品詞分解しながら、訳していく授業は何の面白みも無い。
まるでM1グランプリの笑いを一つ一つ解説していくような寒い作業だった。
それはともかく、今になってみるとこの話にはもう一つの視点があるようにも思えてくる。
何でもフラットに見てみよう、と。
これも今は昔。
本屋の棚から本を取り出すと、大抵の本屋はぎっしりと棚に本が押し込まれているので、自分に興味が無い本まで一緒に引っ張り出される事が多い。
ところが、ある本屋では、隣の本は一緒には出て来ない。不思議に思って棚を見ると、わずかに奥に傾斜しているのでした。
それが意図されたものなのか、たまたまなのか。
でも、僕にとってはそれは特に問題ではなくて、そう思った瞬間が楽しい。
なぜだろう?という問いかけは歳を取るほど、常識や経験が邪魔して難しい。
できるだけフラットな目でいつもの道を見てみる難しさ。小さな子どもは電車に乗るだけではしゃいでいるけど、旅行でもしない限り、いつもの電車はただの移動手段にしか思えない。
知ったかぶりはしたくないけど、果たして勘違いしたこの人を笑えるのだろうかとふと思ってしまった。